はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【真壁暗夜軒】です。【真壁暗夜軒】は「鬼真壁」との異名を持ち、鋲を打った樫の棒を振り回して戦場を駆け回った伝説の剣豪です。それでは【真壁暗夜軒】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
真壁暗夜軒
名前:真壁暗夜軒、真壁氏幹
流派:霞流、霞神道流
出身:常陸国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1550~1622)
真壁闇礫軒久幹
真壁暗夜軒は本名を真壁氏幹といい、天文19年(1550)に常陸国の国人領主・真壁久幹の子として誕生しました。
父・久幹も『闇礫軒』と名乗り、『鬼真壁』と恐れられた人物でした。
鎌倉以来、代々真壁氏は周りを小田、佐竹・北条氏、宇都宮、結城など群雄が割拠した北関東において命脈を保っていました。
久幹は元々小田氏に従っていましたが、永禄2年(1559)には小田氏と結城氏の戦いに結城方として小田の軍勢を迎え撃つ大活躍を見せました。
この時、久幹は長さ1丈余り(約3m)の六角に削って鋲を打った樫の木棒。
これを戦場で振り回し、久幹は小田勢を総崩れに追い込んで、味方は163もの首を挙げました。
この活躍から『鬼真壁』の異名をとったといわれます。
その後、久幹は常陸の雄・佐竹氏と結び、小田氏との争いは激化していきました。
永禄12年(1569)に起こった手這坂の戦いでは、久幹は佐竹配下の婿・梶原政景を救うため出陣し、小田勢を蹴散らして逆に小田氏の居城を陥落させています。
佐竹氏の下で久幹は大きな存在感を示していましたが、完全に佐竹氏に服従したわけではありません。
久幹は密かに小田氏にも内通し、天正12年(1584)の沼尻の合戦では佐竹側ではなく北条側として戦っています。
あくまで独立勢力としてこだわった久幹は隠居後、天正17年(1589)に68歳で亡くなりました。
真壁暗夜軒氏幹
久幹の隠居後、真壁氏を引っ張っていたのが子の氏幹です。
氏幹は父と同じく鋲を打った樫の木棒を振り回して戦場を駆け抜け、佐竹氏の主要な合戦のほとんどに参加して領地も与えられています。
しかし、やはり氏幹も父同様に佐竹氏に完全服従することは嫌いました。
天正16年(1588)に縁戚の大掾清幹が江戸重通と争うと、佐竹氏が江戸重通救援に出陣したため、氏幹は佐竹氏と戦いました。
この戦いで氏幹は敗れますが、この戦いの中でも氏幹は佐竹氏と秘かに連絡を取り合い、佐竹氏に従いつつも独立した勢力として維持を堅持しています。
しかし、そんな氏幹も天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めが始まると時代を読み、氏幹は佐竹氏に従って出陣して秀吉に拝謁しました。
ここで真壁氏は完全に佐竹氏の家臣団に組み込まれていまいますが、結果的にこの判断のおかげで江戸氏や大掾氏のように佐竹氏に滅ぼされることはありませんでした。
その後、文禄の役では佐竹氏の一員として朝鮮に渡った氏幹は帰国後に甥・房幹に家督を譲り、関ヶ原の戦いののちの佐竹氏の秋田移封には同行せず、常陸国で元和8年(1622)に死去しました。
霞流
剣豪として氏幹は別名『暗夜軒』として塚原卜伝に剣術を学んだのちに「霞流(または霞神道流)」棒術の創始したとされることが多いですが、おそらく「霞流」は父・久幹の代から家伝として伝わっていたものと思われます。
「霞流」は門人を抱えるほど地元では有名な剣術でしたが、氏幹と同時期に塚原卜伝から学んでいた同郷の斎藤伝鬼坊が、朝廷から『判官左衛門尉』の位官を賜って帰国すると、あっという間に斎藤伝鬼坊の「天流(天道流)」が有名になっていきました。
これには氏幹の「霞流」の門人たちが面白いはずがなく、門人の桜井霞之助などは「天流」を叩き潰そうと斎藤伝鬼坊と試合を行いましたが、逆に斬殺されてしまいました。
恨みを募らせていった「霞流」の者たちは、やがて天正15年(1587)に斎藤伝鬼坊が弟子・小松一卜斎と一緒にいるところを数十人で取り囲んで殺害を試みます。
しかし、多勢に無勢のはずの斎藤伝鬼坊は弟子を逃がし、鎌槍を手に取って「霞流」の者たちをバタバタと倒していきました。
容易に近づけない斎藤伝鬼坊に、最後は矢を射かけ、なんとか殺害することができましたといいます。
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