①はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【寺田宗有】です。【寺田宗有】は形稽古にこだわりつづけ、発するオーラによって相手に負けを悟らせてしまう江戸時代きっての伝説の剣豪です。それでは【寺田宗有】について流派や出身地も含め、①~④に分けて紹介していきます。
寺田宗有
名前:寺田五右衛門宗有
流派:天真一刀流
出身:上野国
年代:江戸時代末期(1743~1825)
①不遇の時代
寺田宗有は高崎藩士・寺田五右衛門宗定の子として生まれ、中西派一刀流初代の中西忠太子定に師事して「一刀流」を学んでいました。
このころの剣術界は木刀による形稽古から、竹刀・防具着用による打込稽古への転換期にありましたが、子定はこれを良しとせずに木刀による形稽古を重視していました。
しかし、子定が亡くなると跡を継いだ2代目・中西忠蔵子武は先代の考えを否定し、竹刀による打込稽古へと方針を転換していきます。
このため、弱冠17歳の宗有は突然の方針転換に納得がいかず、修行半ばにもかかわらず「剣法の真意に非ず」と言って中西道場を去っていきました。
翌年、高崎藩に出仕した宗有は「平常無敵流」の池田八左衛門成春に入門しました。
30歳になるまでの12年間修行に没頭し、奥義を授けられた宗有は池田門下の重鎮として活躍するようになります。
また、宗有は「平常無敵流」のほかにも居合、砲術、槍術、柔術を学んで全て皆伝免許を得ていたといいます。
しかし、高崎藩では剣術師範は「一刀流」しか認められておらず、「平常無敵流」の宗有が剣術師範として用いられることはありませんでした。
②再び中西道場へ
寛政8年(1796)、宗有は藩侯・松平輝和から「一刀流」の再修行を命じられ、江戸に出て再び中西道場の門を叩きます。
このころ中西道場は2代目・子武がすでに死去していて、3代目・子啓の代となっていました。
また、道場では『音無しの剣』を振るう高柳又四郎が20代の若さで師範代を務めており、翌年に白井亨が入門してくるなど中西道場はこの時まさに全盛期を迎えようとしていました。
すでに竹刀稽古が主流となっていた道場内でしたが、形稽古を重視していた先々代の影響をモロに受けていた宗有は、再入門後も竹刀稽古は一切行わず、もっぱら組太刀の稽古に専念していました。
ある日、あまりに宗有が竹刀を持たないので、竹刀派の若い門人は宗有を侮って試合を申込んだことがありました。
すると宗有は「本来竹刀打ちは好まないが、強いて望みとあれば是非に及ばぬ。少しも遠慮することはないから思い切り打ってこい」と了承し、防具を着けずに木刀を下げて道場の中央に立ちました。
大物ぶる宗有に竹刀派の若い門人はいきり立ち、面を打ちに飛び込もうとしましたが、即座に宗有から「面へくれば、摺り上げて胴を打つぞ」と思惑を読まれてしまいます。
さらに、小手を打とうとすれば「小手へ来れば切り落として突くぞ」と宗有は言い当て、打ち込む前にことごとく手を読まれてしまった若い門人は次第に何もできなくなっていきました。
ほかにも何人かが挑みましたが、全員が同じ目にあったため一同はあらためて宗有の腕前に敬服し、その後は組太刀の悪口をいう者もいなくなっていきました。
一部始終を近くで見ていた千葉周作は、この試合で組太刀の重要性を悟ったといわれています。
③三羽烏の筆頭として
ある日、水戸侯が江戸城に登城する際、行列で先駆けを務めていた徒士が大名行列を笠に着て乱暴を働きました。
行列を見物していた宗有はこの争いを止めようと飛び込み、あっという間に5人ほど投げ飛ばします。
すると、今度は同心たちが慌てて十手を手に宗有を取り押さえようとしました。
しかし、ここでも宗有はあっという間に同心たちの十手を全て奪い、それを投げ捨ててしまいました。
この騒動によって水戸の行列は完全に止まり、何も知らずに後方にいた水戸侯は「何事か」と駕籠から声をかけました。
近くにいた侍が「狼藉者一人に行列が止められ、大勢がさんざんにやられて、狼藉者が去っていくところです」と報告すると、水戸侯は「追え」と命じます。
侍は神妙な顔で「斬りますか?」と聞くと、水戸候は「馬鹿野郎。丁寧に謝ってこい。名前を聞くときは『ご尊名は?』と申すのだぞ」と言い、そのあと寺田宗有の名を聞いて「なんと立派な男よ」と褒めたといいます。
寛政12年(1800)、宗有は56歳で「一刀流」の皆伝免許を許されました。
翌年、中西道場3代目・中西子啓が急逝しますが、子啓の養子・兵馬はまだ15歳でした。
このため宗有は兵馬の後見を務め、高柳又四郎、白井亨の二人を師範代して共に道場を支えていきます。
そして宗有を筆頭として『中西道場の三羽烏』とまで呼ばれたこの3人のおかげで、5年後に兵馬は無事に4代目・中西忠兵衛子正を名乗ることができました。
④老いて極められた剣
宗有は禅の重要性にも着目していて、白隠慧鶴の高弟・東嶺円慈に参禅し、大悟して「道楽天真に達した」と言われ、天真翁を名乗りました。
これで宗有は「天真一刀流」を興して自ら初代を名乗ることになります。
文化8年(1811年)、武者修行に出ていた白井亨が自ら工夫し、会得した伝説の技『八寸の延金』をひっさげて江戸に帰って来ました。
この時、白井亨は「老いることで強さを失う」ことに悩んでおり、その悩みを解決すべく当時60歳を越えていた宗有と立ち合うことになります。
試合では宗有を前にして白井亨は全く手が出せずに完敗。
この結果に白井亨は改めて宗有に心酔し、その場で入門を願い出ることになりました。
その後、宗有の門人となった白井亨は宗有との修行を通じて、年齢によって肉体的な力が衰えても、ますます深く高く進む剣の境地があることを知ります。
白井亨によると、宗有は剣と座禅のほかに毎朝200~300回の水浴びや数日間の断食を死ぬまで続けていたといいます。
文化12年(1815)、宗有は藩主の供をして大坂へ向かったとき、腰には竹光を差して出かけています。
道中、宗有が河原で草履のひもを結び直していると、この竹光が鞘から抜けて足下に落ちました。
これを見ていた周りの者が竹光を見て笑うと、宗有は「わしは気に入らぬ者があると、すぐ刀を抜いて首を切り落とす癖がある。だから旅のときは真刀を差さないことにしている。しかしこの竹光が正宗のような名刀と変わるところはない」と言って、傍らの大石に竹光で斬りつけると、石は真っ二つになったといいます。
おわりに
年齢を重ねても、極まり続ける剣の境地。高齢化社会に悩む現代日本がお手本にしたい人物。
たくさんの「伝説」エピソードも詳細に残っていて、さらにその一つ一つが現実性のあるようなものばかり。
これまでの「神社に籠って夢の中で奥義を得た」のような、安っぽいウリ文句を必要としない品格までも備えた「剣豪」。
この寺田宗有こそ江戸時代における本物の「伝説の剣豪」、江戸時代が生んだ「剣聖」ではないでしょうか。
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