はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【佐々木只三郎】です。【佐々木只三郎】は坂本龍馬を暗殺した実行犯として有力視されている「小太刀日本一」の伝説の剣豪です。それでは【佐々木只三郎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
佐々木只三郎
名前:佐々木只三郎
流派:神道精武流
出身:陸奥国
年代:江戸時代末期(1833~1868)
清河八郎暗殺
佐々木只三郎は陸奥国の会津藩士・佐々木源八の三男として生まれました。
親戚であった旗本・佐々木弥太夫の養子となった只三郎は、柔術と剣術を合わせた戦場の組打ち術を特色とする「神道精武流」を学んでしました。
そして『小太刀日本一』と称されるようになると、20代後半には幕府講武所の剣術師範を務めていたといわれています。
その後、只三郎は清河八郎の策を容れ、京都守護職の会津藩主・松平容保に従っていた兄・手代木直右衛門を動かして江戸で『浪士組』を募集に関わりました。
しかし、この『浪士組』が上洛すると、清河八郎は本来の目的が「朝廷のために尊皇攘夷を実行すること」と主張し、江戸へすぐに帰還することを宣言します。
これに対して近藤勇や芹沢鴨らは反発し、『浪士組』を離脱して京都へ残留したため、只三郎は近藤・芹沢らを京都守護職・会津松平家の支配下に置くように取り計らったといいます。
文久3年(1863)、只三郎は江戸へ帰還すると、幕府の命により清河八郎を麻布一の橋付近で待ち伏せして暗殺しました。
「腕の立つ相手を確実に仕留めるには3人同時の斬り込みでなくてはならない」という教えに忠実に従った闇討ちだったといいます。
坂本龍馬暗殺
幕府はその後、京の治安維持にあたる強力な組織を御家人から募集しました。
『京都見廻組』と名付けられたこの組織で只三郎は与頭勤方を命じられ、『新撰組』と共に尊攘派志士から恐れられていきます。
蛤御門の変にも出動して長州藩士と戦った只三郎は、与頭に昇進すると共に見廻組隊士のために開かれた文武場頭取を兼務。
只三郎は国学だけでなく、「世はなべてうつろふ霜にときめきぬ 心づくしのしら菊の花」に代表されるような歌もよく詠んでいたといいます。
慶応3年(1867)、大政奉還が成されると1か月後に京都近江屋で土佐藩・坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される近江屋事件が発生。
元見廻組隊士・今井信郎の証言によれば、只三郎はその実行犯であったといいます。
坂本龍馬は頭部に三太刀を受けてほぼ即死、中岡慎太郎は十数か所を斬られて2日後に死亡しました。
龍馬暗殺には様々な下手人説がありますが、止めを刺そうとした者に「もうよい、早く引き上げろ」との頭領格の言葉を慎太郎は聞いており、冷徹な暗殺者としての只三郎の姿が一番しっくりきます。
翌年に戊辰戦争が勃発すると、只三郎は幕府方として『見廻組』を率いて鳥羽・伏見の戦いで奮戦しました。
しかし、只三郎は腰に銃弾を受けて重傷を負うと、数日後に敗走した和歌山で死去。享年36。
痛みに苦しんでいる時、介抱していた兄からは「貴様は今までずいぶん人を斬って来たのだから、これぐらいの苦しみは当然だろう」と言われ、只三郎は思わず笑ったといいます。
おわりに
元見廻組隊士・今井信郎が明治になって龍馬暗殺の実行犯は、見廻組・佐々木只三郎だったと供述したため、一気に悪役感が増してしまった佐々木只三郎。
真偽のほどは分かりませんが、清河八郎を暗殺した手口といい、手段を選ばない冷徹なやり方は犯人と断定してもいいかもしれない。
そんな只三郎の最期に兄が放った一言は、実にユーモアがあるというか、見事な皮肉というか・・・そりゃ、只三郎も笑うしかないわな。
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