はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【平山行蔵】です。【平山行蔵】はやり過ぎた修行が有名な、生まれる時代を完全に間違えている伝説の剣豪です。それでは【平山行蔵】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
平山行蔵
名前:平山行蔵
流派:講武実用流
出身:江戸
年代:江戸時代後期(1759~1828)
変態級の修行
平山行蔵は代々御家人の家系である伊賀組同心・平山甚五左衛門勝籌の子として生まれました。
祖父、父とも剣をよく行い、母もまた『髭なしますらお』と呼ばれるほどの女傑であったといいます。
行蔵は山田松斎に「真貫流」を学び、自ら「忠孝真貫流」、後に「講武実用流」と称しました。
師匠の松斎は「女は修行の妨げ」といって自分の一物を斬って捨てたといわれており、行蔵もそこまではしないものの、修行も明け暮れて生涯独身を通しています。
行蔵は自ら道場を持つようになっても兵法修行は怠らず、「真貫流」のほかにも「長沼流軍学」、「大島流槍術」、「渋川流柔術」、「竹内流腰之廻」、「武衛流砲術」をはじめ、水泳、馬術、弓術、棒術など武芸百般に通じ、学問についても和漢の書物8,000書を読破して、儒学を基礎に農政・土木学に至るまで習得したといいます。
行蔵は毎朝、寅の刻(4時)に起きると冷水を浴び、9尺の棒を振ること500回、4尺の居合刀を抜くこと200~300回、丸太に鬼の面を立てかけてこれを8尺の樫の棒で打っていました。
また、読書の際には欅の板を両拳で叩いて拳骨を鍛えていたため、石のように固くなった拳で人の胸ぐらいは突き砕けると豪語しています。
食事は常に玄米を食し、副食は味噌と香の物という質素なものでしたが、冷や酒を呑むことは年老いてもやめず、中風になってもやめることはありませんでした。
行蔵は61歳になるまで土間や板の間にごろ寝して、甲冑を着けたまま寝ることも多かったといいます。
自宅は道場を兼ねていて、居間には長刀、木刀、長竹刀、槍に始まり、大砲、抱え筒、鉄砲、鉄棒、薙刀などの武具が乱雑に詰め込まれ、庭の草はボウボウ、玄関には『他流試合勝手次第。飛道具そのほか矢玉にても苦しからず』と書いた板を掲げていました。
行蔵は背丈が低かったにもかかわらず、3尺8寸(約115cm)という長い刀を差して歩き、鞘尻が地面に擦るので銅金で覆っていました。
終生「武」一辺倒の人物でしたが、高名な幕府要人や儒学者などとも交流も深く、天下無双で知られた力士・雷電為右衛門と力比べ「胸押し」を3度やって3度とも行蔵が勝ったといいます。
「べらぼうめ」が口癖で世の文弱な風潮に憤激しながら、文政11年(1828)に70歳で死去しました。
おわりに
平山行蔵は、完全に生まれる時を間違えた「剣豪」。
戦国時代以前であれば武芸者として重宝されたと思いますが、平和な江戸時代にあって行蔵の「武」への行き過ぎた追及は、もはや変人としか言いようがありません。
他流試合歓迎の看板が掲げられていても、お化け屋敷のような道場なんかには誰も挑戦しにこないでしょう。
ただ、そんな変人であっても交流の幅が広く、門弟にはあの勝海舟の父・勝小吉がいます。
勝海舟は子供の頃にめちゃくちゃハードな稽古を強制されていたのは、この行蔵の影響を受けた父のせいなのでしょう。
ところで師匠の山田松斎、アレを自分で切っちゃうなんて完全に狂ってる。
女のことは精神の修行でなんとかしなさいよ。剣豪なんだから。弟子も師匠もやりすぎだよ。
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窪田清音さんも加えて下さい。