はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高田又兵衛】です。【高田又兵衛】はあの宮本武蔵も認めた宝蔵院槍術の達人、伝説の剣豪です。それでは【高田又兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明してきます。
高田又兵衛
名前:高田又兵衛吉次
流派:宝蔵院流
出身:伊賀国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1588~1670)
槍の又兵衛
高田又兵衛は高田喜右衛門の長男として伊賀国樫村に生まれました。
又兵衛は14歳で「宝蔵院流」の中村直政の門弟となって槍術を学んだのち、直政の推挙で宝蔵院胤栄直々に槍術の指導を受けます。
胤栄から学んでいたのは十文字槍の槍術でしたが、これだけに飽き足なかった又兵衛は相弟子・五坪兵庫に直槍を、柳生松右衛門に「新陰流」を、穴沢如見に薙刀を学んで「宝蔵院流高田派槍術」を完成させたといわれています。
その後、又右衛門は江戸に出て町道場を開き、久世大和守広之、小笠原右近大夫忠真、水野淡路守などに教授を行いました。
元和9年(1623)、又兵衛は久世家の斡旋によって、播磨国明石藩の小笠原忠真に召抱えられ武術指南にあたりました。
また、寛永15年(1638)に起こった島原の乱では、原城攻めに槍手一隊を率いて本丸を陥れる手柄をあげました。
武蔵との試合
又兵衛が仕えた小笠原氏は宮本武蔵を客分として迎えており、二人は藩主の求めで試合した逸話が残っています。
木刀を構えた武蔵に対し、得意の十文字槍で対峙した又兵衛。
又兵衛の鋭い突きを武蔵は防いでいましたが、3度目に槍先が武蔵の股間に入りました。
すると武蔵は自分の負けを宣言し、又兵衛に「以後は直槍を用いられよ」と言ったといいます。
また、それを聞いた又兵衛も「勝ちを譲ってもらった」と謙遜していたといいます。
慶安4年(1651)に病床の徳川家光の病気平癒祈願のため、江戸城に招かれた又兵衛は十文字槍の奥儀を披露しました。
その後も多くの門弟を輩出し、寛文11年(1671)に82歳で死去した又兵衛。
又兵衛には4人の男子があり、長男・斎宮吉深は故郷の伊賀に戻ったのちに藤堂藩に仕え、次男・新左衛門吉和は福岡藩に仕えました。
流儀を相続した三男・八兵衛吉通は『又兵衛』を称して、四男・弥太郎吉全と共に小倉に残り、「宝蔵院流」槍術を広めていくことになります。
おわりに
高田又兵衛と宮本武蔵の試合は、ほとんど無気力試合であったのかもしれません。
というのも、武蔵の養子・伊織は小笠原家に仕えていたらしく、主君の目の前で剣術指南の高田又兵衛を叩きのめせば伊織の立場も悪くなるからだそうで。
おそらく、藩主のわがままに付き合わされた二人は、大人の忖度を行って結果を譲り合ったのかと。
あの武蔵も大人になったんだな~と感じさせる逸話です。
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