はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【松林蝙也斎】です。【松林蝙也斎】は剣術好きの江戸幕府3代将軍・徳川家光がその身のこなしに驚愕した伝説の剣豪です。それでは【松林蝙也斎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
松林蝙也斎
名前:松林蝙也斎永吉
流派:夢想願流、願立流
出身:信濃国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1593~1667)
バットマン
松林蝙也斎は文禄2年(1593)に上杉氏家臣・松林永常の子として信濃国海津に生まれ、はじめ名と左馬之助といいました。
のちに上杉家を出奔し、廻国修行の旅に出て剣術・槍術・薙刀術を学び「夢想願流」を編み出したとされています。
その後、左馬之助は無雲と号して、親類の関東郡代・伊奈忠治の食客となり、その武勇が広く知られるようになりました。
源義経が柳の葉を八断する故事に倣って無雲が行うと、柳の葉は水に落ちる間に十一に分断されたといいます。
また、小刀でハエの首を斬り落としたり、夜道で無雲を脅かそうした時には一瞬で川向うに跳躍すると同時に、刀を刀身だけ持っていったなどの逸話が残っています。
寛永20年(1643)に無雲は仙台藩主・伊達忠宗から子の光宗の剣術指南役として招かれ、江戸に移りました。
光宗の死後も仙台藩に残り、藩士に剣技を教授して剣名を高めた無雲は、慶安4年(1651年)に将軍・徳川家光の前で「夢想願流」の剣技を披露することとなりました。
この時、無雲は組太刀20番を立合ったほか、相手の太刀の棟に飛び乗り宙を舞うなどの奥義を披露。
無雲の袴の裾が何度も屋根のひさしに触れるのを見て、家光は「まるで蝙蝠の如し」とその技量を讃えたといいます。
これ以後、無雲は蝙也斎と号して、さらに仙台藩に「夢想願流」を広めていきました。
仙台で蝙也斎は、死の直前まで道場で千回素振りしながら門人に稽古をつけていたといいます。
おわりに
家光の前でコウモリのように飛び回ったのは、蝙也斎が60歳近くなってからの話。
名前を蝙也斎と変えたところをみると後世に誰かが作った話ではなくて、自分で誇張して伝説にしちゃったパターンかな。
まるで蝙蝠のようだから、蝙也斎と名乗るというネーミングセンスはどうかと思いますが。
コウモリの印象から陰険なイメージしか伝わってこないところが残念なところ。
根は真面目そうなのに・・・。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓