はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【中条長秀】です。【中条長秀】は不殺の剣を他に先駆けて悟った剣豪であり、多くの流派の源流となった「中条流」の創始者でもあります。それでは【中条長秀】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
中条長秀
名前:中条長秀、中条兵庫頭
流派:中条流
出身:相模国
年代:鎌倉時代末期(?~1384)
念流と深い関係にあった中条流
中条兵庫頭長秀は中条出羽守景長の次男として生まれました。
長秀は「中条流」の祖といわれますが、中条家には長秀以前から家伝として刀術が伝わっており、「平法」「中条家流」などと呼ばれていました。
『兵法』と言わず『平法』と呼ぶのは「平法とは平の字たひらか又はひとしと読んで夢想剣に通ずる也。此心何といふなれば平らかに一生事なきを以て第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事を得ず時の太刀の手たるべき也。この教をしらずして此手にほこらば命を捨る本たるべし。」(中条流平法口決)と理由を述べていて、武士が活躍した戦が全盛の鎌倉時代において「殺さず、戦わず」の思想を根底に伝えています。
これよりあとで生まれた飯篠長威斎家直の「香取神道流」もまた『兵法』と言わず『平法』とし、その根拠はこの「中条流」の教えにあるといえます。
また、念阿弥慈恩の高弟である「念流十四哲」には中条判官の名があり、長秀は念流開祖の念阿弥慈恩に学んだともいわれていますが、長秀と念阿弥慈恩には生没年に隔たりがあって慈恩の師であった神僧・栄祐から学んだ説が有力とされています。
長秀と念阿弥慈恩の関係の真偽の程は分かりませんが、のちに中条流2代目を継いだ甲斐豊前守が「念流十四哲」の一人であることから「中条流」と「念流」はとても深い関係にあったことは確実視されており、長秀は家伝として学んだ『平法』を体系化し、さらに念流の影響を受けながら流儀としてまとめていったと考えられています。
長秀は「中条流」の祖ですが、武を頼りに世を渡った武芸者ではなく、世の中には歌人として知られ、また執権北条家の御家人として鎌倉幕府の要職を務めていました。
役職だけで十分安泰な家柄なため、長秀は塚原卜伝や上泉伊勢守信綱のように諸国を巡って流儀を広めていくことはしていません。
中条流は4代目を継いだ富田九郎左衛門長家が「富田流」を名乗って以後、「一刀流」をはじめ多くの武芸流派が興り、流儀武術の源流の一つとなっていきました。
おわりに
鎌倉時代において不殺の剣を伝えていて、数々の剣豪が行う諸国武者修行での流派を広めることもしない。
何か気高い品格を漂わせている中条長秀。
初代「不殺の剣」ともいうべき流派の教えがあるものの、この流派から学んだとされる伊藤一刀斎が人を殺しまくるのは何とも不思議な話です。
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