伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【河上彦斎】日本最強は誰?流派は?

   

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【河上彦斎】です。

【河上彦斎】は漫画「るろうに剣心」のモデルとなっている幕末の人斬りとして有名な伝説の剣豪です。

では【河上彦斎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:https://www.pinterest.jp/

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 河上彦斎

名前:河上彦斎

流派:?

出身:肥後国

年代:江戸時代末期~明治(1834~1917)

 

河上彦斎は、肥後国熊本藩の下級藩士・小森貞助と妻・和歌の次男として生まれた。

初め名前は彦次郎であったが、同藩士の河上源兵衛(彦兵衛)の養子となって名を彦斎と改めた。

16歳で茶坊主として出仕し、儒学者・轟武兵衛や国学者・林桜園に師事して神風連の乱の首領となる太田黒伴雄らと同門となり、兵法を宮部鼎蔵に学んで尊皇攘夷の志を強めていった。

彦斎の容姿は、身の丈5尺(150cm)と小柄で色白だったため、女性の様であったという。

剣は我流で、竹刀稽古ではいつも叩かれて負けばかり。

しかし、ひとたび真剣を握れば、居合の鋭さに加えて袈裟斬りなどの実戦剣術は誰も敵わなかった。

特に彦斎は片手抜刀の達人であったといわれ、当時の熊本藩で最も盛んだった居合の伯耆流を学んだといわれている。

 

万延元年(1860)、桜田門外の変が起こった際、細川藩邸を訪ねてきた水戸の志士たちに感動した彦斎は、彼らの傷の手当までして犯罪者ではなく志士として厚遇した。

これで完全に尊王攘夷に目覚めた彦斎は、清河八郎らと交わって尊皇攘夷活動を始め、文久3年(1863)には熊本藩親兵選抜となって宮部鼎蔵らと同格の幹部に推されるようになった。

彦斎は特に長州藩士とは親しくしていたようで、京の御所護衛の前には尊王攘夷派志士と共に酒を飲んでいた。

そこで志士たちは幕府役人の悪口を言うと、隅で話を聞いていた彦斎は突如飛び出して、しばらくするとその役人の首を持って戻って来たという。

このように彦斎は記録に残らない人斬りを、この頃に多く行っていた。

その後、八月十八日の政変で長州が京を追われると、彦斎は共に長州に移って三条実美の警護を務めた。

 

 

出典:https://s.maho.jp/

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元治元年(1864)に池田屋事件が起こり、旧友・宮部鼎蔵が討たれことを知った彦斎は、仇を討つべく京へ向かう。

京に上がった彦斎は、公武合体派で佐幕開国論者の重鎮・佐久間象山が事件の黒幕と信じ込み、西洋の馬の鞍を使って神聖な京の街を汚したいう難癖をつけて斬り殺した。

この時、彦斎は「人を斬る時はまるで人形を斬るようなものだった。しかし象山のときは違った。初めて人を斬った感じがした。おそらく象山が人傑だったからだろう」と語り、はじめて覚えた恐怖感に襲われて身の毛がよだち、これ以降は暗殺剣を振るうことはなくなった。

 

その後も彦斎は長州藩と共に行動し、禁門の変や第二次長州征伐に参戦。

慶応3年(1867)に熊本に帰ったが、藩は佐幕派が実権を握っていたため投獄されてしまった。

このため、彦斎は大政奉還、王政復古、鳥羽・伏見の戦いなどは獄舎の中で過ごした。

新政府側が優位に立った翌年、熊本藩は彦斎を利用して維新の波に乗ろうと出獄させたが、彦斎は協力を拒否した。

 

明治元年(1868)に彦斎は藩主の弟・長岡護美に従って上京し、高田源兵衛と改名した。

これは佐久間象山の息子・佐久間恪二郎(三浦啓之助)が彦斎の命を狙っていると噂されていたためであるという。

その後、中山道や東北地方を遊説して尊皇思想を説いていたが、彦斎は未だに攘夷思想も捨てることができなかった。

これに対し、開国政策を進める新政府は攘夷論者を疎ましく思っており、長州出身の木戸孝允らですら彦斎に会おうともしなくなった。

三条実美も「彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」と側近に漏らしていたという。

明治2年(1869)、彦斎は鶴崎に左遷されたが、当地に「有終館」を設立して兵法と学問を教え、数百の兵を集めて朝鮮、北海道との交易にも着手する。

しかし、藩から突然免職の通知を受け解散。

熊本に戻った彦斎は、様々な暗殺事件への関与が疑われ、再び藩獄に繋がれたのち江戸送りとなった。

そして明治4年(1872)、日本橋小伝馬町にて斬首。

新政府の方針に従わず、危険な攘夷論者と見なされための処刑であったとされている。

 

 

出典:https://games.app-liv.jp/

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河上彦斎は礼儀正しい温和な人物であるが、平気で人を斬る残忍性も持っていたといいます。

また、彦斎は記録に残る暗殺は佐久間象山だけですが、記録に残っていない人斬りは相当行なっていたとされています。

同じ人斬りで恐れられた岡田以蔵の記録はかなり残っているのに、長生きした方の彦斎の方が記録が残っていないってのが、不気味さと共に長州藩による「もみ消し」を感じてしまう。

最後まで攘夷を強固に唱えたために消された感はありますが、実は新政府にとって彦斎は都合の悪い秘密をたくさん握っている危険人物だったのかもしれません。

長州藩とあれだけ仲良くしていたのに、バッサリ切り捨てられてしまうところは、剣心の最大のライバル「志々雄真実」のモデルにもなっているのかな?

 

、出典:https://ddnavi.com/

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