はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は日本史上における超有名人で実は剣豪でもあった【源義経】です。弁慶との決闘、源平合戦での活躍は紹介するまでもありませんので省略していますが、【源義経】は剣豪としては「太刀打ちの技」を最初に覚えたと者であったとされています。それでは【源義経】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
源義経
名前:源義経
流派:京八流?
出身:山城国
年代:平安時代後期(1159~1189)
鞍馬で鍛えた太刀の術
源義経は牛若丸と呼ばれた少年時代から武道を好み、鞍馬山での修業時代に僧を相手に剣術を習ったとも、鬼一法眼から術を授けられたともいわれていて剣豪としての様々な逸話があります。
平家打倒時の話としては、義経は体が小さく非力で弱い弓しか引けなかったとありますが、その代わりに奥州で鍛えられた巧みな馬術と八艘跳びをするような身体能力を活かした活躍ぶりは目を見張るものがありました。
おそらく身体能力に自信のあった源義経は、将来行動を共にしていく坂東武者たちとは全く違う武術を習得していたと考えられます。
つまり、少年時代に一番大事だったものは孤独な境遇で身を守るための「太刀の術」であって、広い場所と多くの馬を必要とするような弓馬の術ではなかったはず。
義経は大将の家に生まれながらも、悲しき境遇から大将としての技は習うことができず、代わりに僧兵たちから学んだのが個人戦闘、小部隊での戦いに備えた「太刀の術」でした。
やがて義経についていく弁慶たちも、この個人的武術の才能に惚れたところもあるだろうし、これがなければ義経は鞍馬寺からも出ることすら叶わなかったかもしれません。
その後、個人的武術を極めた源義経は奥州に渡って馬術を習得することになりましたが、平氏を追い詰めていく中で見せた源義経の馬の機動戦術は、坂東武者の一騎打ち方式の弓を主体にしたものではなく、近代の騎兵が用いる馬で相手を蹂躙するものであり、革命的な戦術の才も開花させていくこととなったのです。
おわりに
源義経の個人的戦闘能力の高さがあってこそ平家打倒を成し遂げられたと思いますが、その能力の高さが驕りや嫉妬、妬みを生んで結果的に身を滅ぼしてしまうなんて悲しすぎます。
源義経は悲劇のヒーローとして描かれ、日本人特有の感情「判官贔屓」の語源にもなっている人物ですが、私もモロにその「判官贔屓」の感情を持っていて、源義経のような悲劇のヒーローばかり好きになってしまいます。
ところで源義経のような悲劇のヒーロー(ヤマトタケル、北畠顕家、真田幸村、沖田総司諸々)は、なぜ美男子風になってしまうのでしょうか?
いつからこの風潮は始まったんですかね?上の肖像画なんてちっさいオッサンなのに・・・昔はこれが美男子だったのかな?
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