はじめに
ここではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【永倉新八】です。【永倉新八】は新選組二番隊長を務めた剛剣の遣い手で、明治維新後も大正まで生き残った伝説の剣豪です。それでは【永倉新八】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
永倉新八
名前:永倉新八、杉村義衛
流派:神道無念流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治時代(1839~1915)
剣一筋だった永倉新八
永倉新八は天保10年(1839)に松前藩士・長倉勘次の次男として江戸松前藩邸の長屋で生まれました。本姓は長倉。名は載之。
幼い頃から手のつけられない暴れん坊の新八でしたが、岡田十松の『撃剣館』で「神道無念流」に入門してからは持て余す力を全て剣術に捧げ、18歳で本目録を受けます。
やがて新八は19歳で脱藩し、本所の百合元昇三の道場で剣を学んだあと、剣術修行の旅に出て「心形刀流」の伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれ、道場師範代を務めました。
そして高い剣名を得た新八は、その後に近藤勇の道場『試衛館』の居候となりました。
粗削りながら人を惹きつける器の大きい近藤勇と、さっぱりした江戸っ子気性の新八はすぐに仲良くなり、同じ江戸育ちの沖田総司にも慕われる存在だったといいます。
新選組二番隊隊長・永倉新八
文久2年(1862)、新八が幕府の浪士組募集の報せを試衛館に届けたことから、やがて新選組は結成されることとなり、その人間関係だけでなく剣の腕も確かなことから、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中心人物として活躍しました。
特に新選組が天下に名を轟かせた池田屋事件では、新八は近藤勇、沖田総司、藤堂平助、近藤周平とともに5人で突入し、2時間にも及ぶ激闘の末に新八は3人以上の浪士を仕止めました。
この時、新八は左手親指の付け根の肉を切り落とされ、浪士の腕を切り落とした勢いで土間を打った刀は折れ、鎖帷子はボロボロになっていたといいます。
その後、近藤勇のワガママな振る舞いが目立つようになると、新八は斎藤一、原田左之助らと共に会津藩主・松平容保へ訴えるなど対立路線を取ります。
試衛館で苦楽を共にした新八には「近藤勇は局長ではあるものの、我々は家臣ではなく同志である」という主張でした。
それでも新八は新選組から抜けることはなく、油小路の変では原田左之助らと共に御陵衛士を暗殺する働きを見せています。
大政奉還後の慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでは、新八は決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せますが、洋式訓練された新政府軍に敗戦。
江戸に退却後、新選組は甲陽鎮撫隊となりましたが、甲州勝沼で新政府軍と戦って敗戦すると、新八は近藤勇らと別れて北関東を転戦しました。
維新後の永倉新八
戊辰戦争終結後の明治3年(1870)、新八は北海道に渡り、旧松前藩医・杉村松柏の婿養子となり『杉村義衛』と名乗りますが、「自分は剣術の他に能はない」と言って剣の稽古を怠りませんでした。
その甲斐あってか、明治14年(1881)には新八は刑務所の剣術師範に招かれ、看守に剣術を指導しました。
政治犯も多かった全国からの囚人たちには新選組副長助勤・永倉新八の名は大きな抑止力になっていたといいます。
退職後は東京にて剣術道場を開きましたが、明治32年(1899)に再び北海道に渡り、東北帝国大学農科大学の剣道部を指導しました。
老齢で腰も曲がりかけていた新八ですが、稽古着一枚で道場に立ち、竹刀を持てば京都で修羅場をくぐり抜けた剛剣の遣い手の姿を彷彿させたといいます。
その後、大正4年(1915)に虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し死去。享年77。
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