はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【中村半次郎】です。【中村半次郎】は、なぜか幕末の京都において「人斬り半次郎」の汚名を着てしまった伝説の剣豪です。それでは【中村半次郎】について流派や出身地も含め簡単に説明ていきします。
中村半次郎
名前:中村半次郎・桐野利秋
流派:野太刀自顕流
出身:薩摩国
年代:江戸時代末期~明治(1838~1877)
神速の抜刀術
中村半次郎は天保9年(1838)に薩摩城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の5人兄弟の第三子として生まれました。
10歳の頃に父が流罪となり貧乏生活を強いられますが、そんな中でも半次郎は剣術を好み、必死に自己鍛錬に明け暮れていました。
半次郎は軒先から落ちる雨の雫が地面に落ちる前に、3度刀を抜いて3度鞘に納めることができたといいます。
実際にこのような芸当ができたか真偽は不明ですが、それほどまでに剣技の冴えをもっていたことは事実と思われます。
人斬り半次郎
西郷隆盛と出会って以降、半次郎は西郷の維新活動の手足となって働いていきました。
幕末動乱期において半次郎は多くの人を斬り『人斬り半次郎』と呼ばれ、新選組からも恐れられたと伝わっていますが、実際に記録に残っている人斬りは一度だけ。
斬った相手は薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者・赤松小三郎でした。
慶応3年(1867)、半次郎はこの赤松小三郎を幕府の密偵として白昼堂々暗殺しました。
半次郎は「赤松は我が前に立ちふさがり、僕が刀を抜いたところ、赤松は短筒(拳銃)に手をかけた。けれども僕は左の肩より右の腹へ斬り下げ、倒れるところを後ろから田代氏がはらい、赤松が歩み倒れたところを僕がとどめをさした。」と詳細に語っています。
半次郎は赤松小三郎に学んでいたこともあったようで、つまりは師を斬り殺したことになります。
拳銃に手をかけられたところを先に斬った凄まじい剣の速さと、師を斬ったという不忠から半次郎は『人斬り半次郎』としてのイメージが作られていったのかもしれません。
薩摩の重要人物だった半次郎
西郷に従い京で活躍した半次郎のことを、勝海舟は京都で政局を動かしていた薩摩人8人の1人として名を挙げており、決して『剣』だけの男ではありませんでした。
明治維新時、桐野利秋と名を変えた半次郎は江戸城無血開城にも貢献し、その後の彰義隊との戦いにも参加しています。
また、戊辰戦争の最中に半次郎は「一刀流」の剣客3人に襲われ、撃退したものの左手中指と薬指を失う怪我を負っています。
会津若松城引き渡しの際、官軍を代表を務めた半次郎は涙を流して温情溢れる采配を振るいました。
このことは会津藩主・松平容保から非常に感謝され、のちに宝刀を贈られたといわれています。
維新後は新政府の陸軍少将となったものの、西郷の下野と共に薩摩に戻り、不平士族の代表となって西南戦争の中心人物になっていった半次郎。
西郷の自決を見届けたあとは、半次郎は小銃を片手に最後の抵抗をしています。
すでに勝敗はすでに決している中で半次郎は「当たった」「外れた」などと無邪気にふるまっていたといいます。
しかし、それも長くは続かず、半次郎は額を打ち抜かれて壮絶な死を遂げました。享年40。
オシャレに気を使っていた半次郎はフランス製のオーダーメイドの軍服に身を包み、軍刀も純金張の特注品を愛用し、戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといいます。
おわりに
中村半次郎は「人斬り」として土佐の岡田以蔵や、長州の河上彦斎などと並び称されることが多いですが、本当の半次郎はそこまで危ない人間ではありません。
とにかく西郷隆盛を崇拝しており、周りから見ればちょっとイタイ奴だったのかもしれませんが、それは半次郎がとても純粋な心も持っていたからなんじゃないでしょうか。
新政府軍が目の敵にしてボコボコにした会津藩に見せた同情の涙からも、彼の純粋さが分かると思います。
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