はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【伊庭是水軒】です。【伊庭是水軒】は様々な流派を学んで「心形刀流」を創始した伝説の剣豪です。それでは【伊庭是水軒】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
伊庭是水軒
名前:伊庭是水軒秀明
流派:心形刀流
出身:江戸
年代:江戸時代初期~江戸時代中期(1649~1713)
実力重視の伝承
伊庭是水軒は江戸時代初期の人物で幼少の頃より武芸諸流を学び、その中でも特に志賀十兵衛秀則(如見斎・常理子)の「本心刀流」に強く傾倒していました。
是水軒は京にいた秀則の師匠ともわいわれる大藤弥次右衛門秀成を訪ね、そこからさらに大和の山中にいた秀成の師匠ともいわれる妻形謙寿斎貞明を訪ねて教えを請い、延宝9年(1681)に3者連名の印可状を与えられたとされています。
その後、是水軒は江戸下谷御徒町に道場を構え、「本心刀流」をもとに諸流の剣技を合わせて「心形刀流」を唱えました。
この「心形刀流」を極めて随筆『甲子夜話』を著した肥前平戸城主・松浦静山は「心形刀流」の武道書を数多く残していて、その中の『心形刀流目録』によると、諸流の刀法を集めたといわれる「心形刀流」は、とりわけ「本心刀流」「柳生流」「一刀流」の名目が多かったと記しています。
是水軒の子で2代目となった伊庭軍兵衛秀康は、父の剣技を整理して「心形刀流」の体系を整え、実力者を養子にして宗家を継承していく方法を決めました。
このため、秀康以後は実力主義を重視し、江戸の剣術界を席巻していくことになっていきます。
伊庭家は養子を迎えつつ10代・伊庭相太郎に至るまで心形刀流宗家として流儀の伝承を行いましたが、明治になって伊庭家の道統は終焉を迎えました。
「心形刀流」では開祖・是水軒の師であった志賀秀明が『常理子』の剣名を使っていたことから、印可を受けた者は同時に「常〇子」という剣名を受けています。
是水軒は『常吟子』を名乗り、2代秀康は『常全子』、亀山藩に心形刀流を伝えた山崎雪柳軒は『常峻子』を名乗っていました。
おわりに
伊庭是水軒が創始した「心形刀流」は伊庭家から離れているものの、いまだに伝わっている有名な流派です。
是水軒のエピソードは非常に少ないものですが、有名な流派のイイとこ取りをしてまとめた初代、さらに実力主義を唱えた2代目など、この流派の人たちは技も道統も腐らせないように非常に合理的な判断をしているようにみえます。
特に「家」や「血」よりも、「実力」を伝承させることを重視した2代目の判断は本当に素晴らしいものだったと思います。
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