はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高杉晋作】です。【高杉晋作】は粋で過激な行動が目立つ幕末長州の革命児ですが、ちゃんと「剣」についても真面目に取り組んでいた伝説の剣豪と呼べる人物です。それでは【高杉晋作】について流派などについて簡単に説明していきます。
高杉晋作
名前:高杉晋作
流派:新陰流・神道無念流
出身:長門国
年代:江戸時代末期(1839~1867)
剣には真面目だった晋作
高杉晋作は坂本龍馬に拳銃を送るなど革命者としてのイメージが強いですが、実は若い頃は剣の修行に明け暮れていました。
晋作は天保10年(1839)に 長州藩士・高杉小忠太と妻・みちの長男として生まれると、嘉永5年(1852)に藩校の明倫館に入学して「柳生新陰流」の剣術を学び、のちに免許皆伝までなっています。
安政4年(1857年)、吉田松陰の松下村塾に入った高杉晋作は久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに『松下村塾四天王』と呼ばれ、翌年には藩命で江戸へ遊学し、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学びました。
この江戸で晋作は斎藤弥九郎の練兵館において「神道無念流」を学んでおり、『試撃行』と名付けた剣の修行を目的として旅も行っています。
武者修行の旅で晋作は関東各地で試合や稽古をしながら著名な学者たちと語り合い、人脈を広げてその後の革命運動の刺激となっていきました。
剣豪として晋作のエピソードには同志の田中光顕に話した同じ練兵館の剣豪・仏生寺弥助との試合の話があります。
晋作は信州松代で出会った仏生寺弥助に試合を申し込み、散々やってみたものの全く歯が立たず、体当たりまでしてみたがやはり駄目だったと悔しそうに話していたといいます。
また、晋作は長い刀を好んだようで、特に新刀の刃渡り2尺5寸以上ある物が好きだったようです。
自分好みの長刀が売りに出たことを聞くと、晋作は仲間に確保を依頼するなど剣に対する思いは相当なものでした。
ある時、2尺7寸もある剛刀を田中光顕が手に入れると、晋作はこれを欲しがって田中光顕を困らせたという話も残っています。
長州に戻ってからの高杉晋作は休む間もなく尊王攘夷運動に邁進し、過激な活動ばかりが注目されていきますが、意外にも青春時代は真面目に「剣」と向き合っていました。
型破りな晋作が、型どおりの剣術を学んでいたといいうのは面白い話ですよね。
志士としての高杉晋作の話は、この方が本当に面白くまとめてくれていますので紹介しておきます。
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