はじめに
伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高田三之丞】です。【高田三之丞】は「おいとほしや」の掛け声と共に尾張柳生の門番を務めた伝説の剣豪です。それでは【高田三之丞】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
高田三之丞
名前:高田三之丞、高田為長
流派:柳生新陰流
出身:不明
年代:戦国時代~江戸時代初期(?~1685)
天下のお尋ね者
高田三之丞は元はタイ捨流を学んだ西国武者とも織田秀信の家臣・足達庄蔵であるともいわれる人物。
もともとは、岐阜城主の織田秀信に仕えていたが、16歳のときに喧嘩をして相手を斬殺したために岐阜を出奔し、江戸へ逃げていました。
しかし、江戸でも粗暴な性格はあいかわらずで幕臣16人と大乱闘を演じ、3人を斬殺して今度は京都へ逃走。
ところが、この京都でも三之丞は暴れまわります。
「大風波之助」というド派手な名前を名乗った三之丞は蜂屋孫九郎ら10数人を相手に大喧嘩。
またしても3人を殺害し、三之丞はついに『天下のお尋ね者』となり指名手配されてしまいました。
しかし、そんな荒くれ者の三之丞にも逃亡生活中に転機が訪れます。
三之丞は旅の途中でたまたま出くわした辻斬りの犯人を生け捕りにして罪を赦されたのです。
これを機に改心した三之丞は己の最も自信のある剣で生きる道を求め、武者修行の旅に出ることにしました。
もちろんこれまでの経験から腕には自信があった三之丞ですが、遠州掛川で勝負した尾張柳生・柳生兵庫助にはコテンパンに負けました。
以来、三之丞はこれまでの慢心を捨て、柳生兵庫助の弟子として一心不乱に稽古に励みました。
そもそも柳生兵庫助も同僚と喧嘩してこれを殺し、旅に出た経歴を持つ人物であることから、三之丞はや師匠に自分と通ずるものを感じていたのかもしれません。
その後、一心不乱に稽古に励んだ三之丞は『兵庫助第一の高足』とまで呼ばれるほどになり、尾張藩主に仕えました。
そして道場破りに訪れた者の相手は、柳生兵庫助の代わりに三之丞が任されるようになりました。
おいとほしや
三之丞は試合の時には必ず「おいとほしや(気の毒に)」とつぶやいてから、一瞬で勝負を決めていたといいます。
ある日、三之丞がいつものように剣士をテストする事になりました。
相手は剣聖・上泉伊勢守信綱の孫であり、「無楽流」の達人であった上泉義胤。
上泉義胤は父から『新陰流を継ぐ器量にあらず』と評され、「新陰流」を授けられずに長野無楽斎について居合術を学んでいました。
井伊直政、池田光政に仕えた後、尾張徳川藩に仕官を求めた為、腕前をテストされる事になったのです。
かくして上泉義胤と立ち合うことになった三之丞。
一本目は三之丞が圧倒的に押し込んで上泉義胤は顔面蒼白になり、「おいとほしや」の決め台詞と共に三之丞の一撃が決まりました。
すると、だらだらと汗を流していた上泉義胤が休憩を申し出て場を離れ、なかなか帰って来ません。
三之丞も周囲の者も試合放棄かと思い始めた時、スッキリした顔で上泉義胤が戻って来ました。
そして二本目が始まると、三之丞は全く手を出すことなく打ち負かされました。
続く三本目も一方的な展開で三之丞は敗北してしまいます。
試合を見ていた柳生兵庫助は、休憩の間に見違えるほど強くなった上泉義胤に理由を尋ねると、「厠へ。立派なのが出ました」と答えたといいます。
カワイイ弟子・帯刀朱念
上泉義胤には完敗してしまった三之丞ですが、その後も引き続き道場破りの相手をしていました。
するとある日、帯刀朱念が柳生兵庫助に手合わせを求めてやって来ます。
もちろん、相手になったのは三之丞で小竹刀を持ち、帯刀朱念の長竹刀に対しました。
そして三之丞は自分から仕掛け、「おいとほしや」の掛け声とともに物凄い早さで帯刀朱念の眉間を打ちます。
勝負という程のものでもない、圧倒的な実力の差。
これを見ていた柳生兵庫助も三之丞の妙技に「一生の出来事なり」と唸ったといいます。
そして負けた帯刀朱念も三之丞に感服し、その場で個人弟子になることを願い出て、柳生道場に出入りするようになりました。
その後、三之丞は尾張徳川家の家老・成瀬隼人正に仕え、『甫斎』と称して犬山城下に暮らしていました。
しかし、三之丞にとって帯刀朱念は放っておけないカワイイ弟子だっだようで、老後は吉田藩の兵法指南役になっていた帯刀朱念のもとで余生を送ったといいます。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓