はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【奥村左近太】です。【奥村左近太】は幕末から明治にかけて独自に開発した「二刀流」で有名となった伝説の剣豪です。それでは【奥村左近太】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
奥村左近太
名前:奥村左近太
流派:奥村二刀流、直心影流
出身:備前国
年代:江戸時代末期~明治時代(1842~1903)
幕末の二刀流
奥村左近太は天保13年(1842年) に岡山藩士・奥村安心の子として生まれました。
13歳で「直心影流」の阿部右源次の道場に入門した左近太は、右源次の息子である阿部守衛と共に腕を磨き、剣術のほかにも「起倒流柔術」や「日置流印西派弓術」「香取流槍術」などの武術、さらに砲術、馬術も学んでいきました。
安政6年(1859)から左近太は全国を巡る修行の旅を繰り返し、その中で伊予西条藩士・高橋筅次郎の二刀を目の当たりにしました。
二刀に興味を持った左近太はこののち2年間も研究を重ね、独自の二刀流を編み出します。
左近太が開発した二刀流は左足を前に出し、左の大刀を横一文字に構え、それとクロスさせるように右の小刀を構えるもので、宮本武蔵の「二天一流」が右足を出して正面に構えるのに対して「逆二刀」とも言われました。
この二刀流で、のちに岩国の剣豪・宇野金太郎などを破ったといいます。
その後、文久3年(1863)に修行を終え、左近太は「直心影流」の免許皆伝を受けて「奥村二刀流」を開きました。
スター剣豪
明治4年(1871)には左近太は阿部守衛と共に岡山藩が設立した『武揚館』の教授となりましたが、廃藩置県後に廃止。
その後、左近太は士族の経済的な自立のために会社などを設立したものの、経営破綻してただの武道団体になってしまいました。
明治17年(1884)、警視庁主催の撃剣大会で左近太は「柳剛流」の朽原義次に敗れましたが、「加藤田神陰流」の松崎浪四郎や「鏡新明智流」の上田馬之助に勝利し、全国に名を轟かせました。
さらに楠公五百五十年祭奉納大会では優勝、大日本武徳会第1回武徳祭大演武会では「直心影流」の得能関三郎に敗れながらも、左近太は特に優秀と認められ精錬証を授与されました。
この頃、剣術家として人気があった左近太の写真は、芸者の間で大人気だったといいます。
また、明治27年(1894)の天覧試合では、奮闘する左近太を見た明治天皇が「あれが備前の奥村か」と側近に声をかけ、左近太は感激してこの天覧試合を一生の誉れとしました。
その後、左近太は大日本武徳会本部教授に任命されたものの、病のために岡山へ帰郷し、明治36年(1903)に死去。
左近太は廃藩置県後に岡山城取り壊しの話が持ち上がると岡山市長と共に大阪鎮台へ城郭保存を嘆願し、このために天守閣(その後焼失)や月見櫓が残されることになったと言われています。
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