はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【岡田十松】です。【岡田十松】は神道無念流を引き継ぎ「撃剣館」を開いて幕末の志士たちにも教授を行った伝説の剣豪です。それでは【岡田十松】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
岡田十松
名前:岡田十松吉利
流派:神道無念流
出身:武蔵国
年代:江戸時代後期(1765~1820)
神道無念流を託された剣豪
岡田十松は武蔵国埼玉郡砂山村の農民・岡田又十郎の次男として生まれ、13歳で戸賀崎熊太郎暉芳門下の松村源六郎に師事して「神道無念流」を学びました。
やがてメキメキと頭角を現した十松は、15歳の時に師匠の推挙を受けて江戸麹町裏二番町の熊太郎の道場に入門。
十松は熊太郎のもとでも才覚を発揮し、3年目には目録を伝授されて道場に来る他流試合はことごとく十松が撃退していたといいます。
また、十松は「神道無念流」が江戸で評判になるきっかけとなった大橋寅吉の仇討ちにも先陣をきって参加し、見事に本懐を遂げさせています。
その後、十松は22歳の時に免許皆伝を受けると、3年間お礼奉公として師範代を務めたのちに神田猿楽町に道場を開いて『撃剣館』と名付けました。
やがて師の熊太郎が帰郷することになり、「神道無念流」の流儀は十松に託されました。
すると大名、旗本などの出稽古や裏二番町の門弟たちは全て撃剣館に集中し、江戸屈指の大道場として門弟は3,000人~4,000人を抱えたといいます。
門弟の中でも斎藤弥九郎善道と鈴木斧八郎重明は傑出した才能を発揮し、他にも藤田東湖、江川英龍などの名士も学んでいます。
おわりに
岡田十松にとって転機となったのは、師匠の戸賀崎熊太郎が道場を閉めた時。
師匠も十松なら任せられるという安心感があったんでしょうね。
これによって「神道無念流」の全てを引き継ぎ、道場がさらに大きく発展していくことになります。
農民の出身ながら大名のところまで出稽古に行ったところをみると、十松はかなり優れた「剣豪」だったと思われます。
門弟の藤田東湖は「武蔵にも勝る腕だった」と十松の墓に刻んでいますが、一体どうやって比較したんでしょうかw。
思わずツッコミたくなります。
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