はじめに
伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【山田次朗吉】です。【山田次朗吉】は榊原鍵吉から「直心影流」を受け継ぎ、教育にも剣術を活用した伝説の剣豪です。どことなく頑固で融通の利かなさそうな【山田次朗吉】ですが、ここでは流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
山田次朗吉
名前:山田次朗吉
流派:鹿島神伝直心影流
出身:上総国
年代:江戸時代末期~昭和(1863~1930)
榊原健吉との出会い
山田次朗吉は文久3年(1863)、上総国望陀郡下郡村の名主・与吉の長男として富岡村に生まれました。
少年期は虚弱体質だった次朗吉ですが、明治17年(1884)に富岡村に剣道道場『強兵館』が完成すると、開会式に招待されていた榊原鍵吉の姿に心打たれ、剣の道へ進むことを決意しました。
家族の反対を押し切り、上京して榊原道場に通って稽古に励んだ次朗吉は、メキメキと上達して体格もいつの間にか別人のようになったといいます。
また、次朗吉は『榊原の薪割り剣術』といわれる強烈な打ち込みに耐えようと柱に頭をぶつけていたため、額が亀の甲羅のように硬く盛り上がっていたといいます。
さらに次朗吉は榊原道場では行われていなかった形稽古も修得しようと、榊原鍵吉の了解を得て同じ「直心影流」の山田八郎に形を学んでいました。
当時は竹刀稽古派と形稽古派の対立などがありましたが、次朗吉の自論としては両者は相反するものでなく、どちらも修めるべきものという考えがありました。
また、修行中の次朗吉は明治19年(1886)より1年間、警視庁に入って巡査となりますが、巡査以外にも焼き芋屋や米屋、煙草屋なども開業したほか、医学や薬学、整骨術なども学んだりしていました。
直心影流の継承
明治26年(1893)の暮れの大雪の日、榊原鍵吉は次朗吉と陸軍の指導に行った帰り道に下駄の鼻緒が切れて倒れかけました。
すると、次朗吉はとっさに榊原鍵吉の体を支え、それと同時に自分の下駄をすばやく脱いで足元に揃えました。
弟子を敬っていた榊原鍵吉は、普段であれば弟子を裸足で歩かせるようなことはしない人物ですが、この時は見事な次朗吉の呼吸の合わせ方に思わず下駄を履いてしまいました。
この時、榊原鍵吉は次朗吉の見せた呼吸の合わせ方が剣術の呼吸にも通じると大いに感心したといいます。
年が明けた明治27年(1894)元旦の日、道場に祭壇が用意される中で弟子が集められると、榊原鍵吉は次朗吉を指名し「直心影流」第15代と道場を継承させました。
榊原鍵吉は男谷信友から預かった「直心影流」の重責から解放され、9カ月後には死去してしまいますが、その後も次朗吉は榊原鍵吉の残された家族の面倒をみたといいます。
また、次朗吉は榊原鍵吉の後任として北白川宮能久親王の剣術師範にも就き、父の死後に郷里から家財・土地を全て処分して本拠を東京へ移しました。
しかし、明治29年(1896)に台湾鎮圧に赴いていた北白川宮能久親王が薨去すると、報を聞いた次朗吉は「自分がついていたならばお守りできたものを」と号泣し、失意の内に宮家の剣術師範を辞任することとなりました。
直心影流の流祖は?
その後、次朗吉は東京高等商業学校や東京帝国大学の剣道部師範となり、剣術を教育に活用し、多くの剣士を輩出しました。
また、次朗吉は関東大震災のときに自宅や所持していた数万冊の貴重な書物が燃えるのをかまわず、リヤカーで他人の救済を行っています。
このとき「直心影流」の伝書も焼失したため次朗吉は宗家を廃し、昭和5年(1930)に死去しました。
「直心影流」では流祖を杉本備前守、第2代を上泉伊勢守信綱としていますが、生前の次朗吉は流祖を杉本備前守ではなく、松本備前守政信であると主張してます。
このため愛洲移香斎久忠の「陰流」から上泉伊勢守信綱へ伝わったとされる「新陰流」の伝書と食い違いが起こり、現在も意見が分かれることとなっています。
※ここでは次朗吉の意見を尊重し、次朗吉の剣のみ「鹿島神伝直心影流」として「神道流」系統に配することとします。
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