はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【桂小五郎】です。【桂小五郎】は幕末の京都で「逃げの小五郎」と呼ばれたものの、実は江戸では「剣」の方で超有名だった伝説の剣豪です。それでは【桂小五郎】について流派や逸話などを簡単に説明していきます。
桂小五郎
名前:桂小五郎・木戸孝允
流派:神道無念流
出身:長門国
年代:江戸時代末期~明治(1833~1868)
ヤンチャ坊主から練兵間塾頭へ
明治維新の重鎮となった桂小五郎は、天保4年(1833年)に長門国萩で藩医・和田昌景の子として生まれました。
小五郎は長男でしたが、病弱で長生きしないと思われていたため、和田家は姉が婿養子を取って家を継ぎ、小五郎は7歳で桂家の養子に出されました。
少年時代の小五郎は悪戯好きのヤンチャ坊主で、川を行き来する船を転覆させる遊びをしていました。
ある時、業を煮やした船頭から櫂で頭を叩かれましたが、小五郎は額から血を流しながらも笑顔だったといいます。
10代になってからの小五郎は冷静沈着な頭の冴えを見せ、藩主・毛利敬親から2度にわたって褒賞を受けて藩からも注目され始めます。
吉田松陰から学び、やがて『事をなすの才あり』と評された小五郎は、長州藩の剣術師範・内藤作兵衛の道場に入門。
嘉永元年(1848)に元服した際、実父に「元が武士でない以上、人一倍武士になるよう精進せよ」と言われて以降は、小五郎は剣術修行に明け暮れて腕を上げ、実力を認められていきました。
そして小五郎は剣術修行を名目とする江戸留学が藩に許可されると、私費で江戸に上りました。
江戸では三大道場の一つ斎藤弥九郎の練兵館に入門し、「神道無念流」の指南を受けると1年後には免許皆伝となって塾頭を任せられます。
小五郎は同時期に免許皆伝となった大村藩の渡辺昇とともに『練兵館の双璧』と称えられるようになり、塾頭を務めた5年の間に幕府講武所の総裁・男谷精一郎の直弟子を破り、大村藩などの江戸藩邸に招かれて剣術指導も行うなど剣豪として名を天下に轟かせていきました。
この頃、小五郎が6尺という大柄な体格を活かして上段に構えると、「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」といわれています。
小五郎の実力は?
藩命により帰国することになった小五郎は、途中の岩国で千葉門下だった宇野金太郎と試合を行っています。
宇野金太郎は箸でハエを掴むという特技を持っていた剣豪で、修行者もこの道場だけは避けて通るといわれていました。
小五郎は宇野金太郎との試合で軽く籠手で一本を取ったものの、続く二本目では強烈な籠手を受け、腕がしびれて竹刀を持つことができなくなってしまいます。
この試合は形式上は引き分けとされましたが、小五郎は江戸でも味わったことのない剛剣をくらって非常に悔しい思いをしたといいいます。
また一説には、小五郎は江戸に居た安政5年(1858)に武市半平太や坂本龍馬と士学館で試合を行ったとされています。
士学館が主催した様々な道場の猛者が集まる撃剣会には、小五郎は斎藤弥九郎の長男・新太郎とともに参加していました。
この時、小五郎が登場するなり瞬く間に4人を抜くと、周りから「龍馬出ろ!」の声がかかります。
小五郎と龍馬の対決は10本勝負で行われ、互いに5本づつを取り合い、延長の11本目は小五郎が得意の上段から打ち込むところを、龍馬に低く沈まれ双手突きを決められて敗北。
武市半平太は自分が小五郎と戦わなくて済んだことに安心し、龍馬の勝利に大喜びして絵入りの手紙まで送ったといいます。
おわりに
若い頃は「剣豪」として名を馳せた桂小五郎は、幕末の京都では「逃げの小五郎」と呼ばれるほど斬り合いを好まず逃げ回った。
自分の剣に自信がなかったのか、戦いで命を失うことは「日本」のためにならないと思ったのか、小五郎本人にしか分かりませんが、のちに明治維新の立役者になることを考えると小五郎の選択は大正解だったと思います。
龍馬との対決の話は武市半平太の手紙がニセモノらしく、龍馬を良く言うための作り話だといいます。
長州を引っ張ったリーダーなのに龍馬の引き立て役にさせられる桂小五郎って何だかかわいそう・・・
この人を主役にした大河ドラマがあってもいいのになぜか評価が低いのが残念でなりません。
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