伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【小野忠明】日本最強は誰?流派は?

   

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【小野忠明】です。

【小野忠明】は、伊藤一刀斎から「一刀流」を引き継いで柳生と並んで徳川将軍家の剣術指南役にもなった伝説の剣豪です。

では【小野忠明】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:https://japaneseclass.jp/

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小野忠明 

名前:小野忠明

流派:小野派一刀流

出身:安房国

年代:戦国時代~江戸時代初期(1565~1628)

 

小野忠明は、神子上土佐守の三男として永禄8年(1565)に安房国で生まれ、はじめの名前を神子上典膳といった。

里見義康に仕えて天正17年(1589年)に里見家の家来として万喜城攻撃に参加したりしたが、その後、典膳は里見家から出奔して武者修行の旅に出かけた。

典膳が上総国を訪れたとき、かの有名な伊藤一刀斎の「挑戦者求む」の高札を目にする。

典膳は自分の器量を試す機会と思い、すぐに一刀斎が止まる旅籠を訪ねて勝負を挑むことにした。

このとき典膳は、自慢の2尺8寸の太刀を抜いて大いに意気込んだが、これに対する一刀斎は燃え残りの薪を手にしただけ。

結果、典膳が斬りかかるも、一刀斎はわけなく間合いを詰め、太刀を抑えてしまう。

不思議に思った典膳は、次は3尺あまりの木刀を持って打ち込むが、何度やっても木刀を打ち落とされてしまった。

触れることも出来なかった典膳は、一刀斎に心酔して師事することを決意し、翌朝には弟子入りを願い出たという。

一刀斎も典膳の才能を認め、その場で弟子となることを許し、以降は諸国を廻る武者修行に典膳を同行させた。

武者修行の旅は、すでに一刀斎が名を知られていたために、行く先々で多くの挑戦者が現れた。

しかし、おいそれと一刀斎が相手するわけにもいかず、まずは典膳が露払いとなって勝負を受ける。

この結果、典膳はめきめきと腕を上げていくことになった。

 

 

出典:https://ameblo.jp/

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常に側にあって成長著しい典膳に一刀斎は、一刀流の正統を継がせようと考えた。

しかし、ここで問題が発生。

実は典膳の前に一刀斎は、善鬼という弟子を受け入れていた。

この善鬼が自分に道統を譲るのが筋だと唱えて、一刀流の奥義書を奪って逃げ出したのだ。

そして典膳と一刀斎に追われた善鬼は、大きな甕の中に隠れて典膳が甕に近づいた隙を狙って脚を斬ろうと考える。

これに一刀斎は「甕割刀」と授けて甕ごと斬る捨てるよう典膳に指示し、振り下ろされた刀は見事に善鬼を斬り伏せることに成功した。

この時、さすがの一刀斎も同じ道を歩んだ善鬼のことを哀れに思い、「まずは善鬼に一刀流の伝を許し、のちに典膳に与える」と言い、善鬼はこれを聞いてニヤリと笑って息を引き取ったという。

 

その後、一刀斎のもとを離れた典膳は一刀流の研鑽を続け、文禄2年(1593年)に一刀斎の推薦で徳川家康に仕官。

徳川秀忠に重んじられるようになり、柳生新陰流と並ぶ徳川将軍家剣術指南役となった。

このとき秀忠の「忠」の字を拝領し、名を神子上典膳吉明から小野次郎右衛門忠明と改名。

ちなみに小野姓は、忠明の母方の旧姓である。

忠明は将軍家指南役となっても剛直な性格は変わることがなく、慶長5年(1600年)の上田城攻防戦で軍令違反を犯して処罰され、蟄居を命じられる。

その後、罪を許されて大坂の役などで武功を挙げたが、忠明は相変わらず高慢不遜であったために同僚との諍いが絶えなかった。

そして遂に忠明は秀忠の怒りを買ってしまい、閉門処分に処せられて寛永5年(1628)に60歳で死去した。

 

 

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自分の剣にしか興味がないイメージの伊藤一刀斎が弟子を二人も持っていたことには驚きですが、一刀斎に「お!?コイツ見込みある!」と思わせるほど小野忠明の剣が優れていたってことなんでしょうね。

何度も紹介しています漫画「バガボンド」。

この中で、伊藤一刀斎が師匠の鐘捲自斎に会いにいった場面で、立ち去っていく一刀斎には二人の従者が付いています。

この二人が、神子上典膳(のちの小野忠明)と善鬼ってことなんでしょう。

剣豪好きにはたまらない一コマです!

 

 

出典:https://www.instagram.com/

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