はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【伊庭八郎】です。【伊庭八郎】は戊辰戦争で片腕を失いながらも最後まで戦い続け、若くして戦死してしまう悲劇の剣豪です。それでは【伊庭八郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
伊庭八郎
名前:伊庭八郎秀穎
流派:心形刀流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治(1843~1869)
伊庭の小天狗
伊庭八郎は天保15年(1844)に『幕末江戸四大道場』に数えられた御徒町の剣術道場『練武館』の8代目・伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれました。
伊庭家が伝えていた「心形刀流」は実力のある門弟が養子となって流儀を継承することが多く、秀業も八郎ではなく養子とした秀俊に9代目を継がせ、その後に八郎は秀俊の養子となって10代目を継ぐことになっていました。
流儀名の『心形刀』とは、『心は己の心、形は身の形、刀はその用いるところの刀』という剣術を構成する三要素で、特定の流儀の名前ではなく剣術そのものを指しています。
幼少の頃の八郎は剣術よりも漢学や蘭学に興味があり、剣術の稽古を始めたのは遅かったといいます。
しかし、剣術に目覚めてから次第に頭角を現した八郎は『伊庭の小天狗』と呼ばれるようになり、元治元年(1864)に幕府に登用されると将軍の親衛隊・奥詰に抜擢されました。
また、八郎は幕臣の子弟たちを対象とした武術訓練所『講武所』でも若くして教授方を務めるようになります。
その後、奥詰が遊撃隊に改編されると八郎は義兄・秀俊と共に将軍護衛のため上洛。
遊撃隊は将軍を大阪まで護衛した後、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れて江戸に戻ることとなりました。
旧幕軍の若き英雄
江戸帰還後、八郎は遊撃隊の一部と共に各地を転戦し、第二軍隊長として勇名を轟かせました。
そして八郎たちは彰義隊が上野戦争を始めると呼応し、江戸入りを目指す新政府軍を阻止するため箱根に向かいます。
箱根山崎で戦いでは、八郎は被弾した直後に左手を斬り落とされましたが、斬った相手を右手一本で逆に斬り捨てたといいます。
その後、遊撃隊が江戸から退却すると八郎は治療に専念し、回復後に蝦夷地で合流することにしました。
しかし、蝦夷に向かった八郎の乗る『美賀保丸』は銚子沖で座礁します。
八郎は無念のあまり腹を切ろうとしましたが止められ、横浜に潜伏したのちにイギリス艦で箱館へ向かいました。
なんとか箱館に到着した八郎は、旧幕府軍の歩兵頭並、遊撃隊隊長となって徹底抗戦を主張し、隻腕でありながらも奮戦。
胸部に銃弾を浴びる致命傷を受けても八郎は一言も「痛い」と弱音を吐かなかったといいます。
そして八郎は五稜郭開城の前夜に虫の息となり、榎本武揚の差し出したモルヒネを飲んで自殺しました。享年26。
おわりに
伊庭八郎は、幕末の時代に刀で銃に立ち向かっていった誇り高き最後の武士。
若くして亡くなってしまったため、新選組の沖田総司と同様に悲劇の美男子にようなキャラにされています。
でも、病のために戦いたくても戦えなかった沖田総司とは違い、隻腕になりながらも最後の最後まで「剣豪」として生き、戦いの中で死んでいった伊庭八郎は武士として幸せだったのかもしれません。
中には銃を持った写真も残ってますけどね・・・
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