はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は隠れた一流剣豪【奥山公重】です。【奥山公重】は剣聖として名高い上泉伊勢守信綱に師事し、信頼されていた剣豪です。それでは【奥山公重】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
奥山公重
名前:奥山公重 奥山休賀斎
流派:神影流、奥山流
出身:三河国
年代:戦国時代(1526~1602)
家康の初代剣術指南役
奥山公重は三河国の奥平美作守貞能の家臣・奥平出羽守貞久の七男として大永6年(1526)に生まれました。
はじめの名前は定国といいましたが、のちに徳川家康に仕え「公」の字を与えられて公重と名乗ることになります。
幼い頃から剣術を学んでいた公重は、やがて『三河随一の剣技』と称されるほどになっていました。
しかし、己の腕に満足できない公重は兵法修行に出ることを決意します。
そして公重は既に兵法者として知られていた上泉伊勢守信綱が武田信玄に招かれていることを知ると、甲府に赴いて入門を願い出ました。
もともと城主まで務めていた上泉伊勢守が兵法者として大成していく重要なターニングポイントに公重は入門したのです。
入門を許された公重は上泉伊勢守が甲府を離れて高山に1年ほど滞在した時も随行するなど、「新陰流」に対して真摯に取り組んでいました。
やがて「新陰流」の的伝道統を許された公重は上泉伊勢守と別れて三河国に帰国。
その後、公重は上泉伊勢守より伝えられた「新陰流」の剣をさらに究めるべく、三河国奥平明神に籠って剣術に鍛錬に没頭していきました。
やがて夢中の内に神託を得た公重は「神影流」「奥山流」を称するようになり『海内無双の兵法者』として知られて入門者が多く集めます。
さらに徳川家康に仕えた7年の間、剣術指南としても活躍しました。
天正2年(1574)、公重は御朱印を賜って御台所御守役となりましたが、ほどなく病を患って辞職。
慶長7年(1602)に77歳で死去しました。
公重は多くの門弟を残しましたが「奥山流」の道統は、小笠原源信斎長治が継承することになっていきます。
おわりに
上泉信綱にひっついていくのはいいのですが、わりと早めに三河に帰ってます。それだけ奥山公重の剣術が優れていたのかもしれないけど、ちょっと早すぎw。
結局は神社に籠って自分の流派を興すという剣豪の王道パターンなんですが、「神影流」の読みが上泉信綱の「新陰流」と同じなのは敬意を払っていたってことにしときましょう。
しかし、のちに奥山公重の「神影流」の系統から多くの流派が派生しており、この人のおかげで幕末の剣術ブームがあったともいえるマイナーだけど重要な人物です。
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