はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【斎藤一】です。【斎藤一】は沖田総司、永倉新八と並び新選組の最強剣士の一人であったとされる伝説の剣豪です。それでは、どこか影を持つ人物として描かれることも多い【斎藤一】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
斎藤一
名前:斎藤一、藤田五郎ほか
流派:無外流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~大正時代(1844~1915)
9歳で人を斬る
斎藤一は天保15年(1844)に江戸で山口家の次男として生まれました。
父・山口右助は播磨国明石藩の足軽でしたが、江戸へ下って旗本・鈴木家に家来になっていたといいます。
9歳の時、一は口論となった旗本を斬ってしまったため『斎藤一』と名を変え、父の友人が京都で開いていた吉田道場に預けられました。
ここで一は剣の腕を磨いて師範代まで務め、京都で『新選組』の最初の隊士募集があった際に応じたものと考えられています。
そして新選組では20歳にして副長助勤に抜擢され、のちに三番組組長兼剣術師範筆頭を務めました。
一の流派は当初ハッキリしていませんでしたが、のちに「無外流(山口一刀流)」であったと判明しています。
一は沖田総司、永倉新八と並ぶ新選組内の最強の剣士であったとされ、 永倉新八も「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語っています。
新選組・斎藤一
元治元年(1864)の池田屋事件では、一は土方歳三隊として参加していますが特筆するような活躍はなく、その後は新選組きっての刺客、暗殺者として剣を振るいました。
一は長州藩から新選組に潜入していた御倉伊勢武、荒木田左馬之助を斬ったとも、薩摩藩を通じていた五番隊組長・武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺にも関与したとも言われています。
また、慶応3年(1867)に伊東甲子太郎が新選組から別れて『御陵衛士』を結成した際、一は御陵衛士に入隊して動向を探りました。
そしてここで一は近藤勇暗殺計画を知り、金に困ったフリをして御陵衛士の活動資金を盗んで新選組に復帰します。
一が新選組に戻った時、新選組には「本日、旅行中の斎藤一が帰隊し、従前通り勤務する」と掲示が出ていたといいます。
新選組が油小路の変で御陵衛士を一掃できたのは、一がもたらした情報で近藤勇たちが先手を打てたからでした。
その後、坂本龍馬らが何者かに暗殺されると、海援隊、陸援隊は紀州藩の仕業として紀州藩士・三浦休太郎を襲撃する事件が起こります。
かねてより警護していた新選組はちょうど祝宴中であったため、おくれをとって多くの隊士を失いましたが、一は鎖帷子を着ていたために傷を負わず、三浦休太郎も負傷したものの守りきることができました。
慶応3年(1867)に『山口二郎』と改名した一は、大政奉還後に起こった鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼戦争、宇都宮城の戦いに転戦しており、いずれも最前線で戦っていました。
そして戊辰戦争最大の激戦地・会津では新選組は会津藩の指揮下に入りましたが、一は『一瀬伝八』と名乗って負傷した土方歳三の代わりに一時期、新選組隊長を務めました。
その後、復帰した土方歳三は庄内へ向かいましたが、一は会津藩士とともに降伏した会津藩主・松平容保の説得の使者がくるまで戦い続けました。
抜刀隊・藤田五郎
会津での降伏後、一は謹慎生活を送っていましたが、明治2年(1869)に会津藩が下北半島で『斗南藩』として再興されると、一も斗南藩士として下北半島へ向かいました。
一は下北半島に移住する直前、妻・時尾の母方の姓をとって『藤田五郎』と改名しています。
そして明治7年(1874)、ともに戊辰戦争を戦った元会津藩家老・佐川官兵衛が大警視になると、一は東京に呼ばれて警視庁に採用されました。
当時は西郷隆盛の下野によって情勢が不安定になっており、一のような歴戦の強者が警視庁にも必要とされたと思われます。
やがて明治10年(1877)に西南戦争が起こると、一は新選組の生き残りとしてその名を轟かせます。
薩摩の抜刀戦術に苦しめられた政府軍は警視庁抜刀隊を組織し、一はこれに加わって隊を率い、被弾しながらも奮戦して政府軍を勝利に導いたのです。
この活躍は東京日日新聞にも報道され、戦後に一は政府から勲七等と賞金100円を授与されています。
謎の老人
その後、一は巡査部長、警部補、警部など出世して、明治25年(1892)に退職。
この頃、警視庁には撃剣世話掛という剣術指導の役職がありましたが、一がこれを務めた記録はありません。
しかし、一は退職後に元会津藩士らの推挙で看守を務めたあと、東京高等師範学校で撃剣師範を務めて学生に剣術を教えました。
一の剣技は全く衰えておらず、誰も竹刀に触れることさえできなかったといいます。
その後、一は東京女子高等師範学校に勤務して生徒の登下校時の交通整理をしていたとされていますが、この頃に一だと思われる人物の逸話が残っています。
ある日、神道無念流『有信館』の山本忠次郎が木に空き缶を吊るして突きの練習をしていたところ、老人が通りかかって竹刀を借り、一瞬のうちに缶を貫きました。
そして老人は「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切である」と話し、さらに「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。私が成功したのはほとんど三の突きだった」と語ったといいます。
山本忠次郎はこの老人が斎藤一であることは確認できませんでしたが、当時の『有信館』と一の住居はかなり近い距離にあり、一本人であったとされています。
そして大正4年(1915)、一は死期を悟り、床の間に座布団をしいて結跏趺坐のまま往生を遂げたといわれています。享年72。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓