はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【島田虎之助】です。【島田虎之助】は「剣聖」と呼ばれた男谷精一郎の一番弟子で勝海舟にも剣を教えた伝説の剣豪です。それでは【島田虎之助】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
島田虎之助
名前:島田虎之助
流派:直心影流島田派
出身:豊前国
年代:江戸時代後期(1813~1852)
勉強熱心な田舎の青年
島田虎之助は豊前中津藩士・島田市郎右衛門親房の子として生まれました。
虎之介は藩の剣術指南役・堀十郎左衛門に「小野派一刀流」を学び、15歳の時にはすでに『藩内に敵なし』といわれ、やがて九州一円を巡って名を上げていきました。
この九州武者修行の旅で虎之介は筑後柳川藩の大石道場で散々に打ち据えられたこともあり、世の中の大きさを知る絶好の機会となりました。
また、虎之助は剣術だけでなく、日田の広瀬淡窓や筑前の仙厓義梵のもとで学問を修めるなど、文武ともに自己鍛錬を欠かさない人物でもありました。
男谷精一郎との出会い
九州で己に磨きをかけた虎之介は、さらなる飛躍を目指して江戸に向かいます。
しかし、途中で下関で造り酒屋の娘と恋に落ちて娘・菊をもうけたり、同郷の中村栗園という儒者に漢字を学んだりと、出立してからはかなり遠回りもしています。
そして7年後、ようやく江戸に着いた虎之助は評判高い「直心影流」の男谷道場を訪ねて男谷精一郎に手合わせを願い出ました。
男谷精一郎はどんな相手でも試合を申し出れば断ることはなかったといわれ、当然ながら虎之助の手合わせにも快く応じてくれました。
ここで男谷精一郎はいつものように対戦相手を尊重し、3本中1本だけを虎之助に取らせます。
何も知らない虎之助は名人相手に1本取れたことに気をよくして、続いて車坂にあった井上伝兵衛の道場に挑みました。
すると『直心影流の三羽烏』と呼ばれた伝兵衛は、虎太郎相手に全く手加減せずに打ち込みます。
コテンパンにされた虎之助は「伝兵衛こそ日本一の剣豪」と思い、すぐさま入門を願い出ますが、伝兵衛はなぜか男谷道場への入門を薦めてきました。
先程、男谷精一郎と立合い、伝兵衛ほどの腕ではないと感じていた虎之助は、正直に「男谷は評判ほどのものではない」と言うと、伝兵衛はニヤリと笑います。
そして伝兵衛は「軽くあしらわれたようですね。あの方の技量は計り知れない。もう一度行ってみなさい」と言うと、虎之助に紹介状を持たせて男谷道場に向かわせました。
2度目の対決となった男谷精一郎との試合は、先程の試合とは違って全く手が出せず、虎之助は眼光だけで道場の隅に追い込まれて平伏するしかありませんでした。
感服した虎之介はそのまま男谷道場に入門し、厳しい修行を自らに課して1年後には免許皆伝になるほど剣術に打ち込んでいきました。
また、この頃に虎太郎は禅や儒学にも新たな境地を求めて励んだともいわれています。
心の剣
その後、人間的にも成長した虎之介は男谷道場の師範代を任されるようになり、指導に忙しい毎日を送りました。
そんな多忙を極める中でも、鈴木清兵衛の道場に通って「起倒流柔術」を習って武術に磨きをかけ、ここで勝麟太郎(海舟)と相弟子にもなっています。
ちなみに勝麟太郎は、のちに男谷精一郎の紹介で虎之助に門弟にもなっています。
天保14年(1843年)、虎之介は東北に武者修行に出かけ、帰国後に浅草新堀で道場を開きました。
そして松平忠敬の元で剣を教えていましたが、嘉永5年(1852)に39歳の若さで病死してしまいます。
虎之助の死を聞いた師の男谷精一郎は「片腕を失った」と嘆き、虎之助の剣は「心の剣ともいえる剣であった」と語っています。
おわりに
幼いことから剣の天才と呼ばれながらも無敵だったわけではなく、こっぴどい負けも経験していたり、江戸に修行に向かう途中で恋に落ちたり、男谷精一郎から1本取って調子に乗ってしまったり。
島田虎之助は人間臭い一面を見せてくれる剣豪。
そんな素直な虎之助を師匠となった男谷精一郎も「カワイイ奴め」と我が子のように可愛がっていたのかもしれません。
師匠より早く亡くなってしまったことは残念ですが、男谷道場での立合いの話や、死後に師匠から贈られた言葉は現在でも全く色あせていません。
東京に憧れる田舎の若者のようなカワイイ島田虎之助くんを皆さんも愛してやってください。
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私、井上遠遊と申し、現在、勝海舟の精神性に関する著作を進めている者であります。
いろいろと調べてゆくうち、勝海舟(当時麟太郎)の精神―現実に活かせる精神ーの基盤は、島田虎之助によって陶冶されたといってもいいという結論に達しました。もちろん、父母の恩愛はさらに深い基盤の形成に寄与したのですが。
さて、海舟の師島田が残した「剣は心なり。。。」の言葉ですが、その出典はお分かりになりますか。おそらく武道関連の書籍と思いますが。もしうお分かりでしたら教えていただければ幸いです。あるいはそちらのブログを参照したと明記させていただきたいとき思っております。ご許可いただけますでしょうか。
お手数をおかけして大変恐縮ですが、ご連絡いただければ幸です。
剣の道であれ、教育であれ、政治・行政であれ、企業であれ、現代にたりないものはまさにこの正しさだと実感しております。
井上
主な出典はマンガ・中津市郷土の偉人シリーズ第四弾 島田虎之助 剣は心なり
著:屋代尚宣、 監修:大分県中津市です。
私のブログに関しては好きなように使って頂いて大丈夫です。
貴殿のご丁寧な連絡、まさに何事も「心なり」と感じました。かげながら応援してさせて頂きます。
葦尊彦