はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【伊庭秀業】です。【伊庭秀業】は「心形刀流」を幕末の剣術界において大勢力にのしあげ、伊庭家中興の祖と呼ばれた伝説の剣豪です。それでは【伊庭秀業】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
伊庭秀業
名前:伊庭秀業
流派:心形刀流
出身:江戸
年代:江戸時代後期~江戸時代末期(1810~1858)
飛躍と挫折
伊庭秀業は文化7年(1810) に幕臣・三橋藤石衛門成方の次男として生まれました。本姓は三橋銅四郎。通称は軍兵衛。
生誕年に関しては文化6年(1809)、文化8年(1811)、文化11年(1814)などの文献も存在しています。
「心形刀流」7代・伊庭軍兵衛秀淵(常成子)の婿養子となった銅四郎は伊庭軍兵衛秀業と名乗り、8代目を継いで常同子と号しました。
そんな折、江戸では老中・水野忠邦が推し進める天保の改革によって剣術が再び注目され始め、強さを認められた秀業は留守居与力に抜擢されました。
これによって「心形刀流」を世に知らしめた秀業でしたが、やがて水野忠邦が失脚すると状況は一変します。
幕府内で水野忠邦が登用した者への弾圧が始まり、秀業も対象となって伊庭家が存亡の危機に陥ったのです。
このため秀業は30代で隠居を決意し、家督を譲って伊庭家を存続させる道を選びました。
秀業には実子に伊庭八郎がいましたが、このときはまだ2歳。
代々、伊庭家では実力のある門弟が宗家の養子となって流儀を継承することも多かったため、秀業は門人の中から剣・人物共に優れた塀和惣太郎(伊庭秀俊)を養子にして第9代を継がせました。
幕末江戸四大道場
秀業は野に下ってからは道場『練武館』の経営に精を出していきました。
そして秀業は卓越した経営手腕を見せ、「北辰一刀流」千葉周作の『玄武館』、「神道無念流」斎藤弥九郎の『練兵館』、「鏡心明智流」桃井春蔵の『士学館』とともに、幕末江戸四大道場と並び称されるほどにまで成長させ、伊庭家中興の祖ともまで称えられていきます。
また、幕府が外国の脅威を恐れ、幕臣たちの武術訓練所『講武所』を設立した際は、秀業は出仕を命ぜられたものの辞して受けず、代わりに第9代・伊庭秀俊を剣術指南役に推薦したほか、甥の三橋虎蔵、湊信八郎も剣術教授方に推して「心形刀流」が講武所内で大きな勢力とするきっかけを作りました。
秀業が飛躍させた「心形刀流」は多くの門人を抱え、米沢藩主の上杉家、沼津藩主の水野家など江戸時代末期の藩主クラスも名を連ねていたといいます。
秀業は安政5年(1858)にコレラにより死去しましたが、のちに成長した長男・伊庭八郎は義兄にあたる伊庭秀俊の養子となって伊庭家を継ぎました。
しかし、伊庭八郎は戊辰戦争で戦死したため、「心形刀流」第10代は次男の伊庭想太郎が継いでいます。
その後、第10代・伊庭想太郎は明治34年(1901)に収賄などの噂が絶えなかった政治家・星亨を公衆の面前で殺害したたために投獄されて獄死し、伊庭家は途絶えてしまいました。
一方、伊庭家が伝えてきた「心形刀流」は秀業から免許を受けていた伊勢亀山藩士・山崎雪柳軒によって伊勢亀山藩に伝えられたほか、現在も亀山の系統は三重県並びに亀山市の無形文化財に指定されて存続しています。
第10代・伊庭想太郎
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