はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【大石鍬次郎】です。【大石鍬次郎】は伝説の剣豪です。それでは【大石鍬次郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
大石鍬次郎
名前:大石鍬次郎、大石守親
流派:小野派一刀流、天然理心流
出身:江戸
年代:江戸時代後期~明治(1838~1870)
新選組の隠れた剣豪
大石鍬次郎は天保9年(1838)に一橋家臣・大石捨次郎の長男として生まれた。名は守親。
鍬次郎は小野派一刀流を学んでいたといわれていますが、わけあって生家を出奔したのちに武蔵国日野の大工のもとで働き、この大工が土方歳三の義兄・佐藤彦五郎に出入りしていたことから、天然理心流を学ぶことになったといいます。
新選組が名を馳せた池田屋事件後の元治元年(1864)、局長・近藤勇が江戸に戻って新規隊士の募集を行った際に天然理心流の門人が多く採用され、鍬次郎は新撰組に入隊。
この時に伊東甲子太郎の一派も新選組に加入して共に上洛することになりました。
その後、鍬次郎は沖田総司の一番組に配属され、主に暗殺任務に付いたことから「人斬り鍬次郎」と恐れられるようになります。
また、鍬次郎は沖田総司に並ぶ剣客だったともいわれ、のちに「出世のために何でもする残酷で無知な男だが、剣の腕だけは立った」と評されています。
暗殺者の最期
新選組から分裂し、御陵衛士を結成した伊東甲子太郎を襲撃した油小路事件では、鍬次郎が伊東甲子太郎を殺害。
このため鍬次郎は御陵衛士から恨みを買うことになりました。
また、坂本龍馬が暗殺されたあとに起こった天満屋事件では、鍬次郎は斎藤一らと共に紀州藩士・三浦休太郎の護衛の任務についています。
慶応4年(1868)、旧幕府が鳥羽・伏見の戦いで敗北すると新選組は江戸へ撤退し、中山道から迫る新政府軍を迎え撃つために甲陽鎮撫隊に再編成されました。
先発隊として鍬次郎は甲州に向かいましたが、その後、甲陽鎮撫隊が新政府軍に圧倒的な敗北すると同時に失踪しました。
鍬次郎は江戸で妻子と共に潜伏していましたが、懇意にしていた元隊士・三井丑之助に騙されて捕縛。
新政府軍の前に引き出された鍬次郎は、まず坂本龍馬暗殺、伊藤甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、厳しい尋問に耐え切れずに一度は「自分がやった」と証言します。
しかし、のちに坂本龍馬暗殺については撤回し、見廻組の仕業として一応の解決に至りましたが、明治3年(1870)に伊東甲子太郎殺害の罪で斬首されました。享年33。
鍬次郎は公務の範囲内で行ったことで無罪であると主張していたと伝わっています。
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