はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【田中新兵衛】です。【田中新兵衛】は岡田以蔵、河上彦斎と並ぶ幕末の三大人斬りとされた伝説の剣豪です。薩摩藩士で人斬りといえば中村半次郎が挙げられることが多いですが、実際に暗殺しまくっていたのは【田中新兵衛】の方。それでは【田中新兵衛】について流派や出身地も含め簡単に紹介していきます。
田中新兵衛
名前:田中新兵衛、田中雄平
流派:示現流
出身:薩摩国
年代:江戸時代後期~幕末(1832~1863)
執拗な暗殺者
田中新兵衛は天保3年(1832)に薩摩前ノ浜の船頭の子、または薬種商の子として生まれたといわれています。諱は雄平。
島津家一門の島津織部の家臣であったとされていますが、これは鹿児島城下の豪商であり、尊皇攘夷の士でもあった森山新蔵が、持ち船の船頭であった新兵衛に士分の株を買い与えたからといわれています。
新兵衛は幼少期より武芸に励み、正確には不明ですが、示現流の分派を極めたとされています。
やがて大久保利通らが結成した精忠組の志士を交わるようになった新兵衛は尊王攘夷思想に目覚め、文久2年(1862)に京に上って海江田信義や藤井良節の元に身を寄せました。
するとある日、岡藩の志士・小河一敏が安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近が伏見にいるとの情報を掴みます。
島田左近は関白九条家の家令でありながら、幕府に情報を漏らすスパイとして活動していた人物。
新兵衛らは島田左近を暗殺しようと飛び出しましたが、さすがに島田左近も注意し、隠れ家を点々としていたために失敗してしまいました。
しかし、新兵衛はその後も1ヵ月間、島田左近を探し回り、ついに京都木屋町で襲撃します。
最初の太刀を受けてからも島田左近は散々に逃げましたが、新兵衛は執拗に追いかけ回し、通りの真ん中で止めを刺して先斗町でさらし首にしました。
その後、小河一敏の仲介で土佐勤王党の引き合わされた新兵衛は、西郷隆盛と並ぶ薩摩の大人物である評価され、武市半平太と義兄弟の契りを結びました。
こののち新兵衛は武市半平太のはからいで、土佐浪士・岡田以蔵らと徒党を組んで「天誅」の名のもとに次々に暗殺を行っていくことになります。
人斬りの最期
新兵衛らは本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを集団で襲って暗殺したといわれています。
文久3年(1863)、尊王攘夷派から開国派にまわったとの噂が流れた公家・姉小路公知が新兵衛たちの次の標的となりました。
御所からの帰り道に襲撃された姉小路公知は、従者が太刀を持ったまま逃走したため、やむなく手に持っていた扇子で応戦せざるを得ませんでした。
武術の心得のあった姉小路公治は、斬りつけられてもひるまずに刺客の刀を素手で掴み、奪い取ろうとしたといいます。
そして揉み合っている間に、もう一人の従者・吉村右京が刺客を背後から刀で突き刺してひるませ、刀を奪われた刺客は同志にかかえられて逃走しました。
その後、姉小路公知は自宅までたどり着いたところで息絶えましたが、刺客の刀をはしっかりと掴んでいました。
やがて刀を頼りに下手人探しが始まり、この刀は新兵衛のものであることが突き止められます。
現場には薩摩下駄も残されていたため、新兵衛は犯人として捕縛され、町奉行の尋問を受けることになりました。
しかし、新兵衛は一言も発さず、隙をついて脇差で腹を斬り、そのまま喉を突いて即死してしまいます。
事件の数日前に新兵衛の刀は盗まれたとの情報があったこと、襲撃の手際があまり悪かったこと、姉小路公知と武市半平太が良好な関係にあったことなどから、真犯人は他にいるのではないかとの憶測がなされましたが、新兵衛が負っていた傷が生き残りの証言と一致していたことから、やはり新兵衛が実行犯であったとされています。
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