はじめに
ここでは伝説の忍者シリーズとして架空の忍者、実在の忍者の両方を紹介しています。日本の歴史上、数多く忍者が名を残していますが、今回紹介する伝説の忍者は【果心居士】です。【果心居士】は松永久秀、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康と名だたる戦国大名と渡り合った実在の忍者とされています。もはや【果心居士】は忍者といっていいものか疑問に感じる部分もありますが、とりあえずここで【果心居士】が行ってきた数々の奇行、幻術を簡単に紹介していきますのでご覧ください。
果心居士
名前:果心居士
存在:実在の人物?
出身:筑後国?
年代:戦国時代~江戸時代?
VS 松永久秀
果心居士は戦国時代に現れた忍者。というより、とにかく胡散臭いマジシャンといってもいい人物。
生まれは筑後国とされ、大和国の興福寺で僧になり、幻術を扱ったために破門されたといいます。
興福寺で使った幻術は、猿沢池の水面に笹の葉を放り投げ、笹の葉が魚になって泳ぎ出したというもの。
また、この術を怪しいと言った者の歯を、楊枝でつつくと、たちまち抜け落ちそうになったといいます。
その後も大和国で活動していた果心居士はやがて評判になり、噂は大和を支配する松永久秀の耳にも届くようになりました。
やがて久秀は実力を試そうと果心居士を多聞城に招くと「自分に恐ろしい思いをさせることができるか」と迫ります。
すると、果心居士は人払いするように言って久秀を一人きりにさせ、目の前に青白い女性の姿を浮かび上がらせました。
それは5年ほど前に死別した久秀の妻であったため、さすがの松永久秀も震え上がったといいます。
その後、果心居士は織田家の家臣になろうと幻術を披露して信長から絶賛されますが、仕官は許されませんでした。
VS 織田信長
普段の果心居士は見事な地獄絵を持っており、それを群衆に見せて説法し、布施を募って生活していました。
これに興味を持った信長はその絵を献上するよう迫りましたが、果心居士はこれを断ったために信長の家臣によって斬り殺され、絵は奪われてしまいました。
しかし、信長が奪った絵を広げて見てみると、絵はただの白紙になっていました。
そして、しばらくして果心居士がまた絵を見せて説法をしているという噂が信長のもとに届きます。
信長が今度は対面して絵を譲るように言うと、果心居士は「正当な代金さえ払えば、絵は元通りになる」と答えました。
そして信長が金百両を渡すと、白紙の中に絵が現れたといいます。
VS 明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康
ある日、果心居士の評判を聞いた明智光秀は、自らの屋敷に呼んで酒を振舞いました。
酔った果心居士はリクエストに応えて幻術を披露することになり、扇子を取り出して奥座敷の方を指します。
そして果心居士が屏風の絵の中の小舟を手招きすると、たちまち屏風から水が流れ出し、辺りは水に浸かりはじめました。
最終的には火を吹く大蛇までが現れ、果心居士は屏風から出てきた舟に乗り込んで絵の中へ姿を消してしまいました。
最後に気を失ってしまった光秀たちが、あとで周りを確かめてみても水に浸かった形跡は全く見当たらなかったといいます。
果心居士はこれ以来、姿を現さなくなったとされていますが、一説には天正12年(1584)に豊臣秀吉に招かれたという話もあります。
この時、果心居士は久秀のときと同様に秀吉の前で女性の幻像を浮かび上がらせました。
しかし、この女性は秀吉が誰にも言ったことのない過去の戦場で犯した女の姿であったため、恐怖を感じた秀吉は果心居士を捕らえて磔にするよう命じます。
果心居士は秀吉の家臣たちによって縛られましたが、縄が緩んだ隙にネズミに変身して磔柱に駆け上がり、まるでタイミングを見計らったかのように鳶が舞い降りてきて、ネズミを掴んで飛び去ったといいます。
また、江戸時代の慶長17年(1612)には、因心居士という者が駿府の徳川家康の前に現れ、年齢を尋ねると居士が88歳と答えたという記録が残っています。
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