はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【榊原鍵吉】です。【榊原鍵吉】は剣術が廃れていく明治の世に「最後の剣客」として天下に名を轟かせた伝説の剣豪です。それでは【榊原鍵吉】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
榊原鍵吉
名前:榊原鍵吉、榊原友善
流派:直心影流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治時代(1830~1894)
不遇の少年時代
榊原鍵吉は文政13年(1830)に榊原益太郎友直の子として生まれました。
榊原家は徳川家に代々仕える直臣の家であり、父は軍学に秀でていたといいます。
鍵吉は幼少の頃から剣術を好み、わずか13歳で男谷道場に入門。
しかし、母の死去すると引っ越して自宅から道場が遠くなってしまい、鍵吉は幼い兄弟の面倒も見なければならなくなりました。
これを見かねた師匠・男谷精一郎が玄武館・士学館・練兵館などの有名道場への移籍を促しても、鍵吉は「入門した以上は他に移る気はない」と言って通い続けます。
そして鍵吉は逆境にも負けずにメキメキと腕を上げ、やがて男谷精一郎は鍵吉を高く評価して免許を授けようとしました。
これに鍵吉は「自分は貧乏で祝いの宴も張れないから辞退したい」と断ったため、男谷精一郎は免許皆伝にかかる一切の費用を引き受け、翌日に免許授与になったといいます。
幕末の活躍
安政3年(1856)、幕府が外国からの脅威に対するため武道を奨励する講武所を設立すると、鍵吉は男谷精一郎の推薦によって27歳で剣術教授方として参加しました。
鍵吉の待遇はすこぶる高く、二ノ丸御留守居格、300俵を支給され、朱塗りの槍を立てて登場する身分でした。
安政7年(1860)、将軍・徳川家茂、大老・井伊直弼らの前で開かれた模範試合では、鍵吉は槍術の高橋泥舟と試合して勝ち、満座の喝采を浴びます。
そして徳川家茂は鍵吉の飾り気のない正直な性格も気に入り、自らの個人教授に指名して、上洛の際には将軍警護の役も申し付けました。
文久3年(1863)の将軍上洛時、鍵吉は新たに召し抱えられた同門の天野将曹と二条城で試合を行い、「参った」と言わない天野将曹を強烈な諸手突きでひっくり返したといいます。
またこの年、京都の四条河原で土佐藩浪士3人を斬ったともいわれています。
その後、徳川家茂が死去すると、鍵吉は大いに落胆して江戸に戻って道場を開き、15代将軍・徳川慶喜には仕えようとはしませんでした。
明治の侍
慶応4年(1868)、戊辰戦争で上野に彰義隊が立て籠もると、鍵吉は加盟せずに宮家の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して脱出に成功。
維新後、鍵吉は徳川家の静岡移転に従って大番頭を務めましたが、廃藩置県によって失職すると東京の道場に戻りました。
その後、明治政府から出仕するよう要請がありましたが、鍵吉は弟の大沢鉄三郎を代わりに推挙しています。
やがて世の中は剣術どころではなくなり、町道場の閉鎖が相次ぐと武士は職を失って路頭に迷う者が続出しました。
すると鍵吉はこれを問題視し、武芸者の救済策として『撃剣会』を組織し、剣術の興行を計画しました。
剣術を見世物にした『撃剣興行』には当時から批判的意見もあったものの、結果的には人気を博し、剣術の命脈を繋ぐ役割を果たしています。
あくまで侍としての姿にこだわった鍵吉は、明治9年(1876)に廃刀令が出されても、刀の代わりに「倭杖」と称する木刀を差し、脇差代わりに「頑固扇」と称する木製の扇を考案して身に着けていました。
その後、鍵吉は明治天皇の前で天覧試合が行われた際に審判を務め、西南戦争で抜刀隊が活躍して警視庁に撃剣世話掛が創設されると審査員として採用者を選抜しました。
最後の剣客
撃剣興行や抜刀隊の活躍もあったものの、剣術が役目を終えていこうとした明治20年(1887)、鍵吉は『最後の剣客』として輝きを見せます。
それが明治天皇天覧の『兜割り試合』。
ここでは『鉢試し』として弓、槍など使用して兜を割ることが試されました。
明珍鍛えの兜は逸見宗助、上田馬之助の剣を弾き、全く歯が立ちませんでしたが、最後に出た鍵吉は明治天皇に一礼すると、「直心影流」の大自然の運行を取り入れて阿吽の呼吸をもって名刀『同田貫』を振り下ろし、見事に兜に斬り込みました。
この日、鍵吉は白装束で臨み、失敗した際は腹を切る覚悟だったといいます。
晩年、鍵吉は講釈席や居酒屋を経営したものの失敗し、弟子の山田次朗吉に道場を譲って明治27年(1894)、鍵吉は生涯髷を切らないまま息を引き取りました。享年65。
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