大河ドラマ西郷どん(せごどん)
桜田門外の変と井伊家のその後
大河ドラマ西郷どん(せごどん)第18話から第22話まで西郷吉之助(隆盛)は奄美大島で過ごしています。
この奄美大島で吉之助は愛加那と結婚し、子供までもうけて幸せな時を過ごしていますが、江戸では大老・井伊直弼が殺害されるという大事件が起こっています。
約3年間、吉之助が愛加那とよろしくやっている間にも時代は大きく動いていたのです。
今回は大河ドラマ「西郷どん」ファン、大河ドラマ「おんな城主 直虎」ファンに向け、吉之助も手紙で知って驚いた幕末の大事件『桜田門外の変』と、井伊直弼が殺された後の『井伊家のその後』について紹介したいと思います。
出典:http://iphone-express.net/2011/07/09/movie-news-20110709/
事件の発端
まず、幕府の政治を取り仕切る大老が殺されるという前代未聞の大事件『桜田門外の変』の原因はどこにあったのかを説明していきます。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)を見ている視聴者にとっては今さら感はありますが、とりあえずおさらいとしてお付き合い下さい。
幕府が抱える二つの問題
江戸時代末期、幕府は二つの問題を抱えていました。
一つ目は、後継ぎが見込めない第13代将軍・徳川家定のあとの次期将軍を決めなければならなかったこと。
二つ目は、ペリーの来航によって開国を迫られ、貿易をするよう条約を結ぶように脅されたこと。
そんな中、安政5年(1858)4月に大老に就任したのが彦根藩主・井伊直弼でした。
井伊直弼は、早急に『将軍継嗣問題』と『日米修好通商条約の締結』を解決しなければなりませんでした。
このような状況下、幕府内では『将軍継嗣問題』で次期将軍に紀伊藩主・徳川慶福を推す南紀派(井伊直弼を中心とした一派)と、水戸藩出身の一橋慶喜を推す一橋派(水戸前藩主・徳川斉昭を中心とした一派)に分かれて激しく対立していきます。
さらに一橋派は弱腰外交を続ける幕府官僚たちを批判して攘夷論を主張、一方の南紀派は開国路線を進めようとしていました。
意外ですが、開国路線を取る井伊直弼は『日米修好通商条約の締結』については、天皇の許可(勅許)が必要であると考えていました。
しかし、アメリカの圧力に負けた老中たちによって井伊直弼は幕府内で孤立してしまい、ついには交渉担当者が勅許なしでの条約に調印してしまいます。
こうして井伊直弼は、幕政の最高責任者として不本意ながら条約締結を公表せざるを得なくなり、一橋派から激しい非難の声を一身に受けることになりました。
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井伊直弼が強権発動!安政の大獄
「条約調印するとは何事だ!」と城に上がってきて井伊直弼を批判する一橋派の連中。
当初は適当にあしらっていた井伊直弼ですが、翌日には腹を決め、大老として強権を発動することにします。
まずは自身が推している徳川慶福が次期将軍であることを発表し、さらに勝手に城に上がってきて批判を繰り返した一橋派の面々に隠居や謹慎を申し付けました。
これらは全て将軍・家定の名で出されたため、さすがの一橋派も為す術がありませんでした。
しかし、この井伊直弼の行動に猛反発した人がいます。
はい。薩摩藩主・島津斉彬です。
俺!俺!
一橋派だった薩摩藩主・島津斉彬は、抗議のため藩兵を率いて上洛を決意しました。
朝廷から幕政改革を命じてもらおうとしたのです。
しかし、この島津斉彬は上洛の準備中にあっけなく急死してしまいました。
一方、京都では孝明天皇が幕府に対して怒っていました。
ここで薩摩藩士・西郷隆盛らは朝廷工作を行い、天皇から水戸藩に『戊午の密勅』が下されることになります。
この密勅は、幕政の刷新と大名の結束を説いたものでした。
しかし、朝廷が大名へ直接指示するというのは、幕府権威を完全に無視したこと意味しています。
事態を重く見た井伊直弼は、水戸藩などが朝廷をそそのかしたとして徹底的に弾圧することを決めました。
世にいう『安政の大獄』の始まりです。
井伊直弼は側近・長野主膳らを使い、幕政を批判する公家、志士を捕らえて処分していきます。
この強引にも見える『安政の大獄』の一方で井伊直弼は、朝廷工作もうまく進めることも忘れません。
天皇には「いずれは鎖国に復帰するための準備」と弁明して、幕府を認める方向に転換させていきます。
このため、日を追うごとに弾圧はエスカレートしていき、最終的には100名以上が処分されてしまいました。
水戸藩士の襲撃計画
『安政の大獄』が本格化し、密勅に関わった者たちが次々と捕らえられていく中、『戊午の密勅』が下された水戸藩は、これを返納するか否かで紛糾していました。
過激な尊皇攘夷思想を持つ返納反対派の水戸藩士・金子孫二郎などは、密勅の写しを諸藩へ回して西南雄藩との連合の道を模索します。
さらに返納反対派の水戸藩士らは、前藩主の徳川斉昭が永蟄居処分を受けても、現藩主の徳川慶篤は幕府に従って朝廷に返納することを決めても、止まることはありませんでした。
やがて負傷者まで出して大騒ぎとなった水戸藩は、返納を延期することで何とか事態を沈静化させました。
しかし、すでに返納反対派の矛先は次の方向に向かっていました。
江戸に向かった金子孫二郎ら尊攘過激派は、江戸に駐在している薩摩藩士・有村雄助、有村次左衛門兄弟と結びつきます。
この有村兄弟は、大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場している有村俊斎の弟たちです。
弟はテロリスト!有村俊斎
彼らは薩摩藩主・島津斉彬の上京と合わせて幕府閣僚を殺害し、天皇の勅書を得て幕政を正そうと計画していました。
しかし、頼みの薩摩藩では島津斉彬が急死していて、その後に実権を握った島津久光は薩摩藩が直接計画に関与することを拒みます。
それでも尊攘過激派の水戸藩士たちは諦めることなく、単独での幕府閣僚殺害計画の準備を進めていきました。
『安政の大獄』によって尊攘過激派たちは幕府から常に追われ続けており、幕府も彼らの過激な行動を警戒をしていました。
そんな中でも、金子孫二郎らと有村兄弟はがら空きとなっていた薩摩屋敷で計画を練っていきます。
水戸、薩摩の両藩から多くの参加者は見込めないと判断した金子孫二郎たちは、殺害目標を幕府閣僚数名から、井伊直弼一人に絞りました。
さらに井伊直弼殺害後は京へ向かい、薩摩藩との次の連携を目指すことを計画します。
そして事件の前日、酒宴が催されて品川宿に襲撃メンバーが集結。
酒盃を交わし、この事件で藩に迷惑がかからないように夜明けまでに除籍願を届けました。
事件当日『桜田門外の変』
季節外れの雪が降り、辺りはすっかり真っ白になった安政7年3月3日(1860年3月24日)。
早朝に水戸浪士(前日脱藩済)一行は品川宿の旅籠を出発し、桜田門付近へ到着すると、すでに江戸町民らが登城していく大名行列を見物していました。
浪士一行も見物を装い、井伊直弼の駕籠を待つことにします。
そして午前9時、標的の井伊直弼の行列が彦根藩邸の門を出ました。
行列は総勢60名余りで、護衛の侍たちは雨合羽を羽織り、雪の水分を避けるため刀に袋をかけています。
井伊直弼の元には、当日の未明に襲撃計画の情報が届いていましたが、井伊直弼は護衛の強化は失政を認めることになると考え、普段通りの行列で江戸城に向かうことにしていました。
井伊直弼の行列が桜田門外に差し掛かった時、浪士たちは襲撃を実行しました。
まず、一部の浪士が行列の先頭で騒ぎを起こして、護衛の注意を前方にひきつけます。
その後、合図のピストルが駕籠めがけて発射されると、浪士本隊の駕籠への抜刀襲撃が始まりました。
この時すでに井伊直弼は、ピストルの弾丸によって腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなっていました。
襲撃に驚いた彦根藩士が多く逃げる中、残った彦根藩士十数名が懸命に駕籠を動かそうとしました。
しかし、次々と斬りつけられてバタバタと倒れ、井伊直弼の乗った駕籠は雪の上に放置されてしまいます。
さらに護衛の彦根藩士たちは刀にかけた袋が邪魔になり、とっさの抜刀ができずに被害が拡大していきました。
そんな中、彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨て、刀の袋を外し、駕籠を必死で護りました。
また、これに続いて彦根藩士・永田太郎兵衛も二刀流で奮戦し、水戸浪士たちに重傷を負わせます。
しかし、奮戦むなしく二人もやがて倒れしまい、駕籠を護る者はいなくなりました。
絶好のチャンスを逃すまいと水戸浪士たちは次々と駕籠に刀を突き立て、薩摩の有村次左衛門が虫の息となっていた井伊直弼を引きずり出し、首を刎ねました。
そして有村次左衛門は計画成功を仲間に知らせるため、刀に首を突き立てて勝鬨の声を上げます。
しかし、この勝鬨が思わぬ事態を引き起こします。
襲撃で斬られ、昏倒していた彦根藩士・小河原秀之丞は声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村次左衛門を追いかけます。
そして小河秀之丞は有村次左衛門に追いつき、背後から後頭部に斬りつけました。
この一撃で有村次左衛門は重傷を負って歩行困難となり、首を引きずって歩くことになります。
その後、有村次左衛門は覚悟を決めて若年寄・遠藤胤統邸の門前で自決し、井伊直弼の首は遠藤家に収容されることになりました。
一方、襲撃現場には数名の死体が横たわり、雪は鮮血で真っ赤に染まっていました。
襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からは、多くの藩士たちが加勢に出ましたが間に合いませんでした。
やむなく彦根藩は死傷者や駕籠を収容すると共に、落ちていた指や腕、さらには血がついた雪まで徹底的に回収しました。
その後、主君の首のありかを見つけた彦根藩は、首の返還を求めて遠藤邸の使者を向かわせます。
表向きは「藩士の首」と偽り、内向きでは「負傷した直弼を引き渡す」ということにして、同日の夕方ごろに首は彦根藩邸に届けられました。
そして彦根藩は井伊直弼の死を隠蔽し、「主君は負傷し自宅療養中」という届けを幕府へ提出しました。
出典:http://e-tsurezure.blog.so-net.ne.jp/
事件関係者への処分
加害者側(水戸藩・薩摩藩)
この『桜田門外の変』に参加した襲撃者16名は、ほとんど生き残ることができませんでした。
それでも現場を脱することに成功した3名は協力者と共に、計画通り京を目指します。
しかし、すでに幕府の探索の手は拡がっており、首謀者である水戸浪士・金子孫二郎、薩摩浪士・有村雄助(二人とも襲撃不参加)らは伊勢国・四日市の旅籠で薩摩藩兵によって捕まってしまいます。
金子孫二郎は江戸に引き渡され、取り調べの後に斬首されましたが、有村雄助は薩摩藩士が関与した事実を隠すため薩摩へと護送されました。
その後、幕府の探索は薩摩にも迫り、有村雄助は藩命によって自刃し、他の関係者も自首や捕縛された後に刑死、獄死しました。
襲撃者のうち2名は隠れるなどして明治の世まで生き残りましたが、彼らの中には計画を一切口外しないとの固い約束があり、事件のことについては死ぬまで口を閉ざしました。
被害者側(彦根藩)
彦根藩では襲撃により、井伊直弼以外の藩士が8名死亡。
藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声も上がりますが、家老・岡本半介が叱責して何とか阻止します。
襲撃での死亡者の家には跡目相続が認められましたが、生存者に対しては事件から2年後に護衛失敗の厳しい処罰が下されました。
軽傷者は全員切腹が命じられ、無傷の者は全員が斬首・家名断絶、処分は本人のみならず親族に及びました。
その後の井伊家「新政府軍へ参加」
事件直後
事件後、彦根藩は井伊直弼の死を隠し、負傷したとの報告だけを行ったため、諸大名から続々と見舞いの使者が訪れました。
この使者の中には水戸藩の者もおり、彦根藩士の憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたといいます。
その後も、幕府側は直弼の死を公表しませんでしたが、事件は多くの人々に目撃されていたため、大老暗殺は江戸市中へ知れ渡っていきました。
2ヶ月後、幕府は「井伊直弼は急病になり相続願いを提出後に病死した」と発表しました。
幕府が病死扱いにしたのには二つの理由があります。
一つ目は、譜代筆頭・井伊家の御家断絶による水戸藩への敵討ちを防ぐため。
二つ目には、殺された井伊直弼の『安政の大獄』などで、重い処分を受けていた水戸藩への追加処分は、水戸藩士の反発を招く恐れがあるため。
これによって井伊家は取り潰しを免れ、井伊直弼の子・愛麿に彦根藩の跡目相続が認められました。
2年後~
2年後の文久2年(1862)、薩摩藩は島津久光が藩兵を率いて入京し、幕政の刷新を要求します。
これを受けて幕府は一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職へ任命。
直弼政権を支えた老中・安藤信正などが罷免されて、松平慶永の主導のもとで『文久の改革』が始まります。
この改革で彦根藩は、石高を35万石から25万石に減らされたほか、家職であった京都守護を剥奪されました。
このため「京都守護職」が新たに新設され、会津藩主・松平容保がなっています。
大河ドラマ「八重の桜」松平容保
彦根藩は、この処分の前に恭順の意を示すため、井伊直弼の腹心・長野主膳らを斬首していましたが、減封を免れることはできませんでした。
慶応2年(1866)、彦根藩に挽回の機会がやってきます。
幕府による第二次長州征伐に出陣することになったのです。
この戦いに彦根藩は意気込み、伝統の「赤備え」を着て幕府方として出陣しました。
しかし、この「赤備え」が裏目に出てしまいます。
夜間でも目立ちすぎた「赤備え」は長州方から格好の標的とされ、大敗を喫してしまったのです。
その後、彦根藩は慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで譜代大名筆頭として出陣。
藩主・井伊直憲自らが率いた彦根藩は幕府軍の先鋒を勤めて、徳川への忠誠を最後まで貫き通すと思われました。
しかし、戦場に錦の御旗が掲げられると、彦根藩は突如翻って新政府軍に付いてしまいます。
完全に倒幕に方向転換した彦根藩は、その後も薩摩藩と共に大津を守備するなど新政府軍に協力。
流山では元新選組・近藤勇を逮捕するなどして新政府から賞され、彦根藩は明治維新を迎えました。
その後の井伊家「井伊直弼の敵討ち」
『桜田門外の変』は事件翌日の3月4日に、国許の前水戸藩主・徳川斉昭の元に伝わっていました。
水戸藩は事件を知って驚き、ただちに幕府へ捜査協力を申し出ます。
その後、水戸藩は浪士関係者らを捕縛したことで事なきを得ました。
しかし、それでも水戸藩の中には尊攘過激派藩士が残っていて、その後も『坂下門外の変』や『天狗党の乱』などの尊王攘夷運動が繰り広げられます。
特に領内で起きた『天狗党の乱』では、水戸藩は武力鎮圧に乗り出します。
居場所がなくなった天狗党は一橋慶喜を頼って京都へ向かいますが、逆に一橋慶喜は鎮圧軍の長として出陣したために、やむなく投降することになります。
この時、彦根藩士は「敵討ちだ!」と言わんばかりに参加を願い出て、水戸藩士352名が斬首しました。