大河ドラマ西郷どん
堀田正睦(ほったまさよし)
大河ドラマ西郷どんで、又吉先生wが演じる13代将軍・徳川家定が、アメリカ総領事のハリスと謁見した時、家定の奇行にハラハラしながら見ている堀田正睦。
この堀田正睦は斉彬が信頼していた阿部正弘が死んだ後に、幕政を取り仕切っていた老中首座ですが、外交交渉や将軍後継問題でうまく立ち回れず、のちに罷免されてしまうかわいそうな人です。
決して堀田正睦が無能な人ではなく、この時代のこの状況下で老中首座を任されたことがまさに不運。
幕府と朝廷、井伊直弼と徳川斉昭など、開国派と尊攘派の間に挟まれて、うまくやれっていうのがそもそも無理な話。
今回は史実でも大河ドラマでも、あまり日の当たることのない井伊直弼の親友・堀田正睦について簡単に紹介します。
堀田正睦(ほったまさよし)
堀田正睦は、文化7年(1810年)に佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男として江戸で生まれた。
父の正時が死去に伴い、藩主は堀田正愛が継ぎ、その後に正睦は正愛の養子となった。
正睦は丈夫な身体をもち、小鳥が大好きで自然の中ですくすく育ったという。
その後、藩主・正愛には実子が生まれるも早世してしまい、また正愛も病気で危険な状態に陥ったため、文政7年(1824年)に老臣・金井右膳らは堀田一族長老で若年寄の堀田正敦の子を藩主に擁立しようとした。
しかし、藩内では下級武士が金井に反対して対立。さらに正敦が養子を出すことを拒否したために、正睦が藩主に就任した。
藩主となった正睦は、自分を支持した者を側用人に抜擢して権力を確立し、金井の死後は藩主として藩政改革を行う。
正睦は蘭学を奨励していたことから「蘭癖」と揶揄された。
幕政においても正睦は、天保12年(1841年)に老中に任命され、老中首座・水野忠邦が着手した天保の改革に参与する。
しかし、正睦はこの忠邦の改革は失敗に終わると予想しており、天保14年(1843年)には病気と称して辞表を提出した。
老中辞任後も正睦は、江戸城溜間詰(控えの間に待機する役目)となり、幕政への発言力を持っていた。
正睦は攘夷がすでに不可能であることを理解し、早急に外国と通商すべきという開国派であった。
安政2年(1855年)に安政の大地震が起こり、正睦は江戸の屋敷で負傷。
その1週間後、老中首座・阿部正弘に推薦され、正睦は老中に再任され老中首座を譲られた。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事・タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来たため、正睦は孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしたが、天皇は強硬な攘夷論者であったために却下された。
一方、このころ幕府内では将軍・家定の後継者をめぐって徳川慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が対立する問題が起きており、正睦は一橋派の頭・徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわなかったために南紀派に加担していた。
条約調印の勅許で失敗していた正睦は、慶喜を将軍、越前福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋派に協力している朝廷が条約調印に賛成すると考え、南紀派から一橋派に寝返る。
しかし、正睦が上洛している間に、南紀派の井伊直弼が大老に就任。
井伊直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始め、安政5年(1858年)に正睦は老中を罷免されて政治生命を絶たれ、翌年には強制的に隠居させられた。
実は正睦と井伊直弼は、江戸城溜間詰(控えの間に待機する役目)の頃から親友のような関係にあったといわれている。
正睦は溜間において新入りだった井伊直弼を助け、阿部正弘と井伊直弼が対立した際は、二人の仲を取り持っていたし、井伊直弼も正睦の開国方針に逆らった者を押さえ込んで助けていた。
隠居はさせたものの、井伊直弼は時期をみて正睦を復帰させるつもりであったといわれている。
しかし、桜田門外で井伊直弼が命を落とすと、井伊直弼との繋がりから正睦は蟄居処分となり、元治元年(1864年)に死去した。享年55歳。
堀田正睦はほったまさよし と読みます。
ほったまさむつ ではありません。中途半端な知識で記事を投稿しないでくださいね?