山縣有朋(狂介)西郷どん(せごどん)高杉晋作の奇兵隊を引き継ぎ、西郷隆盛に可愛がられ、西郷隆盛の命を奪った「日本軍閥の祖」

      2018/09/10

大河ドラマ西郷どん(せごどん)
山縣有朋(山縣狂介)

大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、幕末に西郷吉之助(隆盛)と共に活躍した長州藩の中心人物といえば、玉山鉄二が演じる桂小五郎(木戸孝允)ですが、明治に入ってからは他にも長州藩出身の重要人物が登場してきます。

その中でも紹介したいのが「山縣有朋(狂介)」。※

「山縣有朋(狂介)」は幕末に高杉晋作が作った奇兵隊を率いていましたが、イマイチぱっとした活躍ができませんでした。

しかし、明治に入ってからは西郷隆盛の協力もあって、この「山縣有朋」は軍のトップ、政治家としても花開いていきます。

この記事では西郷隆盛に可愛がられ、最終的に西郷隆盛の命を奪うことになった元長州藩士「山縣有朋(狂介)」について簡単に紹介していきます。

※大河ドラマ「西郷どん」ではイケメンボイスとして「真田丸」で直江兼続役だった村上新悟が演じます。

 

 

出典:https://togetter.com/

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山縣有朋(狂介)

山縣有朋は、天保9年(1838年)に長州藩の下級武士・山縣有稔の長男として生まれた。通称は「狂介」。

藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ山縣有朋であったが、家族に先立たれて寂しい青春時代を過ごしていた。

簡単に人を信用しない山縣有朋は、友人の勧めで松下村塾を紹介されたが当初は辞退したともいわれる。

しかし、山縣有朋は上京した際に久坂玄瑞らに影響を受けて、帰藩後に改めて松下村塾に入塾した。

そして松下村塾の先輩・高杉晋作が設立した奇兵隊の副官である軍監となり、長州征伐では事実上、実権を握って活躍する。

 

出典:https://blogs.yahoo.co.jp/

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薩長同盟締結後の慶応3年(1867)、山縣有朋は高杉晋作の葬儀を済ませて京都へ赴き、薩摩藩士・西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流した。

薩摩の国父・島津久光とも面会し、挙兵計画を打ち合わせたあと、山縣有朋は長州に戻って準備を進めたが、合流を約束した薩摩藩がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられた。

ようやく薩摩勢と長州勢が合流した後、山縣有朋は京都へ向かったが、討幕の最前線から外れて鳥羽・伏見の戦いでは長州に残ることになった。

この戦いのあとで、ようやく奇兵隊にも出陣の命令が下り、山縣有朋は北陸・越後地方攻略の参謀となる。

北陸では長岡藩家老・河井継之助と激戦を繰り広げ、何とか越後を平定。

この時、薩摩兵と長州兵は連携不足で苦戦し、山縣有朋と黒田清隆は一時対立して薩長兵が別々に行動するなど問題続きだったが、西郷隆盛が現地に赴いて解決している。

その後は会津城籠城戦で包囲軍に加わり、会津藩降伏にも立ち会った。

 

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明治政府樹立後、山縣有朋は木戸孝允や西郷隆盛に願い出ていた海外留学の許可が下り、明治2年(1869)に西郷従道と共に渡欧して、各国の軍事制度を視察した。

帰国後に兵部少輔に任命されると、兵部省の実質的なトップとして木戸孝允の意向に沿いながら軍制改革を進めていった。 

西郷隆盛の協力を得て山縣有朋は徴兵制を取り入れ、兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置くなど軍制改革を断行。

近衛都督にも任じられて、山縣有朋は軍の中心人物になった。

 

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明治5年(1872)に政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせたことから、山縣有朋は責任を取って辞任。

しかし、軍にとっては山縣有朋に代わる人材はおらず、すぐに陸軍卿で復職して参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。

征韓論とめぐる政府内の対立では、山縣有朋は西郷隆盛と木戸孝允の間で板挟みになり、どっちつかずの態度が木戸孝允の怒りを買ってしまい、しばらく冷遇された。

明治10年(1877)、山縣有朋は西南戦争で参軍として官軍の事実上の総指揮を執る。

激戦の果てに西郷隆盛を追い詰めた城山の戦いでは、幾重にも包囲網を張り巡らし、慎重に慎重を重ねて攻撃地点を定めた。

また、攻撃直前には「大義名分のない挙兵は周りの暴走ではないか」と西郷隆盛の立場を理解した上で、これ以上犠牲者を出さないため自決を勧めた。

これに西郷隆盛は無反応であったため、山縣有朋率いる政府軍は総攻撃をかけ、西郷隆盛が自決したことで戦争は終結した。

西郷隆盛の遺体を検分した山縣有朋は、涙を流してその死を悼んだという。

 

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その後、山縣有朋は陸軍内で派閥を形成して絶大な力を持っていった。

また、内務大臣としての地方自治にも熱心に取り組み、市制・町村制・府県制・郡制を制定して日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させようとした。

山縣有朋は、急進派である自由民権運動を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れようともしている。

そして明治23年(1890)、山縣有朋は第3代内閣総理大臣に就任し、日本最初の帝国議会に臨んだ。

明治27年(1894)から始まった日清戦争では、第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとり、明治37年(1904)の日露戦争でも参謀総長として日本を勝利に導く。

その後も、陸軍だけでなく政官界に大きな影響力を及ぼし、「日本軍閥の祖」とも呼ばれた山縣有朋は、大正11年(1922)に肺炎のため死去。享年83。

葬儀は国葬だったものの、政党政治否定、藩閥政治推進、社会運動弾圧を行ってきた山縣有朋は、一般市民には全く人気がなく、一般弔問客はほとんどいなかった。

 

出典:http://i-be.jp/

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