大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
大久保達熊など大久保利通の子供たち
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第40話、上京した西郷隆盛に大久保利通は歓迎パーティーで迎えました。
この時、大久保のそばに居たのは正妻の「満寿」ではなく、京で妾となっていた「おゆう」。
大久保は薩摩に「満寿」と子供たちを残し、「おゆう」とその間に生まれた子供と一緒に東京で暮らしていました。
この記事では、40話に登場する大久保利通の四男「達熊」のほか、他の子供たちについても簡単に紹介していきます。
長男「利和(彦熊)」(母:満寿)
長男・大久保利和は西郷隆盛は奄美大島に流された年の安政6年(1859)、正妻・満寿との間に生まれました。幼名は「彦熊」。
利和は明治4年(1871)の岩倉遣欧使節の一員となった父に連れられて渡米し、明治7年(1874)までフィラデルフィアの中学で学びました。
帰国後は開成学校に入学しましたが、父が紀尾井坂の変で暗殺されると華族となって大久保侯爵家の当主になり、大蔵官僚となりました。
その後、鉄道事業に関心があった利和は、岩倉具視と「日本鉄道」を設立し、「甲武鉄道」の社長などを務めました。
昭和20年(1945)に死去。享年86。
次男「牧野伸顕(伸熊)」(母:満寿)
次男・牧野伸顕は文久元年(1861)、正妻・満寿子と間に生まれました。幼名は「伸熊」で西郷隆盛の長男「菊次郎」とは同い年。
生まれてすぐに牧野吉之丞の養子となりましたが、養父が戊辰戦争で戦死したため大久保家に戻っています。(名字は牧野のまま)
兄・利和と同じように岩倉遣欧使節団に随行し、フィラデルフィアの中学で学び、明治7年(1874)に帰国して開成学校に入学。
父の暗殺後、明治13年(1880)に中退して外務省に努めました。
牧野伸顕は外務大臣、農商務大臣、文部大臣、内大臣、宮内大臣、枢密顧問官等の要職を歴任し、昭和に入ってからは元老として昭和天皇からの信任も厚かったといいます。
しかし、留学経験もある牧野伸顕は親英米派であったために右翼や軍部から憎まれ、昭和11年(1936)の「2・26事件」で襲撃されました。
この時、牧野伸顕は孫の麻生和子(麻生太郎の母)の機転によって窮地を脱し、その後も太平洋戦争と生き抜いて昭和24年(1949)に87歳で亡くなりました。
三男「利武(三熊)」(母:満寿)
三男・利武は薩長同盟が締結される前年の慶応元年(1865)、正妻・満寿との間に生まれました。幼名は「三熊」。
利武がどのような幼少期を送っていたのかはよく分かりませんが、明治20年(1887)に第一高等中学を卒業したあと、アメリカ、ドイツに留学して明治27年(1894)に帰国し、日清戦争で通訳官を務めました。
その後、台湾総督秘書官、内務大臣秘書官となり、明治33年(1900)からは鳥取県知事など各県の知事を歴任しました。
長男・利和に子供がいなかったため、利武は養子になって大久保の家督を相続し、昭和17年(1943)に78歳で死去しました。
四男「利夫(達熊)」(母:おゆう)
四男・利夫は大政奉還、王政復古が行われた慶応3年(1867)、妾・おゆうとの間に生まれました。幼名は「達熊」。
利夫は海軍軍人を志していたといいますが、明治27年(1894)に27歳で病死してしまいました。
五男「雄熊」(母:満寿)
五男・雄熊は戊辰戦争が終結に向かっていた明治2年(1869)、正妻の満寿との間に生まれました。
雄熊は石原家の養子に入りましたが主な経歴は分かっておらず、昭和17年(1943)に74歳で死去したといいます。
六男「駿熊」(母:おゆう)
六男・駿熊は、父が岩倉遣欧使節団の一員として渡欧する前年の明治3年(1870)、妾・おゆうとの間に生まれました。
外交面などで活躍した兄達とは違い、駿熊は帝国大学農学部を卒業したのち鳥取県農学校の教師となり、農業面で活躍しました。
駿熊は父に同様に寡黙でしたが、発言する時は周囲を屈伏させる力があったといいます。
明治37年(1904)、農業技術を研究する目的で海外留学し、養鶏や製糖業などを研究。
帰国後は鹿児島の製糖業の振興を期待されましたが、明治45年(1912)に42歳で病死してしまいました。
七男「七熊」(母:おゆう)
七男・七熊は、父が岩倉遣欧使節団の一員として渡欧した明治4年(1871)、妾・おゆうと間に生まれました。
兄・駿熊と共に農学者になって殖産興業の振興に努めたといいますが、その生涯は多くは分かっておらず、、昭和17年(1943)に72歳で亡くなりました。
長女「芳子」(母:満寿)
長女・芳子は西南戦争の前年、明治9年(1876)に正妻の満寿との間に生まれました。
父・利通は多忙のため、一人娘と過ごす時間が限られていましたが、出勤前に芳子を抱き上げてあやすのを何よりの楽しみにしていたといいます。
暗殺事件の日は、父に抱かれる時はいつも笑顔だった芳子が大泣きしたといいます。
同郷の伊集院彦吉の妻になった芳子は昭和40年(1965)まで長生きしています。
八男「利賢」(母:おゆう)
八男・利賢は父が暗殺された5カ月後、妾・おゆうとの間に生まれました。
利賢は帝国大学を卒業後に横浜正金銀行に入り、東京支店副支配人、ロンドン支店支配人を務めました。
大正12年(1923)、本店支配人となり、昭和11年(1936)には頭取に就任。
利賢は太平洋戦争を生き抜いて、昭和33年(1958)に80歳で死去しました。
ちなみに、妻は「2・26事件」で命を落とした財政家・高橋是清の娘でした。
西郷どん(せごどん)あらすじ
西郷どん(せごどん)記事まとめ