大河ドラマ西郷どん(せごどん)
奈良原喜左衛門
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第25話で、薩摩藩の「国父」島津久光の行列に割り込んだ英国人・リチャードソンを最初に斬りつけたのが奈良原喜左衛門。
大名行列を乱すことは何人たりとも許されることではなく、さらに当時は「攘夷」の機運が高まっていた中で、奈良原喜左衛門は主君を守る薩摩藩士として当然の行為をしたまでのことですが、この事件によって薩摩藩は窮地に立たされることになります。
この記事では、生麦事件の加害者・奈良原喜左衛門について簡単に紹介していきます。
生麦事件の被害者「リチャードソン」
奈良原喜左衛門(1831~1865)
奈良原喜左衛門は、幕末の薩摩藩士・奈良原助左衛門の長男。
奈良原氏は嵯峨源氏筒井氏の流れを汲む家で、代々、本名は一字としていました。
このため喜左衛門は「清(滌)」、また弟・喜八郎には「繁」という名が付けられています。
斉彬、久光に仕えた「武」の人
鹿児島城下の高麗町の生まれた奈良原喜左衛門は、薬丸自顕流を学んで「達人」と称されるほど上達し、また弓術にも特別な才能を見せた「武」の人でした。
薩摩藩主・島津斉彬の命で江戸に向かった奈良原喜左衛門は、13代将軍・徳川家定の後継者に一橋慶喜を擁立させるため奔走しましたがあえなく失敗。
その後、帰国した奈良原喜左衛門は、安政6年(1859)に精忠組に加盟しました。
当初、奈良原喜左衛門は「尊皇攘夷」を唱えていましたが、後に島津久光が進める「公武合体」に転換しています。
文久2年(1862)、薩摩藩「国父」島津久光の率兵上京に奈良原喜左衛門も従いました。
このとき、過激行動を計画していた有馬新七らに対し、久光の命を受けた奈良原喜左衛門と海江田武次(有村俊斎)は説得にあたっています。
しかし、この説得は失敗に終わり寺田騒動が勃発しました。
ちなみに、このとき弟・喜八郎は鎮撫使として活躍しています。
生麦事件とその後
その後、朝廷の信用を得た島津久光派は、幕政改革の要求するため江戸へ向かいますが、このときも奈良原喜左衛門は従いました。
そして江戸からの帰路、武蔵国生麦村に差し掛かった時、奈良原喜左衛門は行列に割り込んだ英国人・チャールズ・レノックス・リチャードソンに斬りつけました。
周囲の制止も聞かず、久光の乗る駕籠まで近づかれたことで、奈良原喜左衛門は激昂して犯行及んだといいます。(生麦事件)
事件後、奈良原喜左衛門は薩摩に匿われていましたが、翌文久3年(1863)には、この事件がもとで薩英戦争が起こってしまいます。
この戦いでは、奈良原喜左衛門は敵艦隊を奪うため、海江田武次とともにスイカ商人のふりをして近づきましたが失敗。
その後、講和が成立しますが、その条件には生麦事件の犯人の差し出しも含まれていました。
しかし、薩摩藩は犯人は「逃走中」であると言い訳し、なんとか奈良原喜左衛門は命拾いします。
以後、奈良原喜左衛門は主に京都で活動しましたが、慶応元年(1865)に京都の薩摩藩邸において34歳の若さで亡くなってしまいました。