しかし、皆吉鳳徳は「近思録崩れ」と呼ばれる薩摩藩のお家騒動に連座して寺院に閉居することとなった。
その後、赦されたものの藩には仕えようとせず、世界情勢に知るべく海運業に目を着ける。
蘭書から造船について研究した皆吉鳳徳は、日本最初の西洋式帆船「伊呂波丸(いろはまる)」を建造して薩摩藩に献上した。
医者であった皆吉鳳徳は一ヶ月前から自分の病気は薬で治すことはできないと言い、水だけを飲み続けて眠るように逝ったと伝えられている。
皆吉鳳徳が死んだ時、孫の大久保正助(利通)は8歳。
生前の皆吉鳳徳は、孫を大変かわいがっていたようで、後に大久保利通は普段から洋風を好んだ皆吉鳳徳のことを振り返っている。
皆吉鳳徳の変人ぷり①
牛を飼っていた皆吉鳳徳は、いつも牛の背中に乗っていた。
町に来る途中で自分より身分が高い人の行列に出会っても、牛から降りたくなかった皆吉鳳徳は、近くの籬(まがき)自分の頭と牛の首を突っ込んでやり過ごした。当然のことながら無礼な行為だったが、皆吉鳳徳を誰も咎めなかったという。
この滑稽な姿を見た人々は、「鳳徳は頭隠して尻隠さぬ」と語り合ったといわれている。
籬(まがき)
皆吉鳳徳の変人ぷり②
皆吉鳳徳の近所のガキンチョたちは、いつも「牛を借してくれ」とうるさかった。
ある日、めんどくさくなった皆吉鳳徳は、家に居た下女が嫌がるにもかかわらず「お牛」と呼んだ。
それからガキンチョ共が「ちょっと牛を貸して」と言うと、皆吉鳳徳は「わかった」と答えて「お牛」を連れてくる。
当時の薩摩藩は男の子から女の子に話しかけることを、侍として「恥」としていたため、ガキンチョたちは「お牛」という女の子が出てきたことにビビッて逃げ出していった。
薩摩隼人はシャイ?