大河ドラマ西郷どん(せごどん)
将軍後見職と政事総裁職
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、寺田屋騒動なで過激な尊王攘夷志士たちを処分した薩摩の「国父」島津久光は朝廷から働きを認められて調子に乗っていました。
さらに島津久光は、朝廷の威と武力を背景に幕府に改革を迫り、文久の改革がなされることになりますが、この時に設置された幕府の役職が「将軍後見職」と「政事総裁職」です。
今回は、安政の大獄で謹慎させられていた一橋慶喜、松平春嶽(慶永)が任命され政治の表舞台に立つことになった「将軍後見職」と「政事総裁職」について簡単に紹介します。
将軍後見職
将軍後見職は、幕末に新設された政事総裁職、京都守護職と並ぶ江戸幕府の要職の一つ。
安政5年(1858)、第13代将軍・徳川家定の遺命によって幼少の新将軍・徳川慶福(家茂)の後見人として御三卿の田安慶頼が任命されたのがはじまり。
後見人としては江戸初期、同じく年少で将軍となった4代将軍・徳川家綱の時の保科正之、また江戸中期の11代将軍・徳川家斉の時の松平定信時の先例があるが、この時は大老・井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、何の力も持っていませんでした。
桜田門外の変後、尊王攘夷の機運が高まると朝廷は幕府へ親井伊派の処分を要求し、幕府はその対応として井伊直弼に擁立された田安慶頼を後見職から外します。
そして文久2年(1862年)、薩摩藩の「国父」島津久光の率兵による『文久の改革』で朝廷から幕府へ正式な役職として将軍後見職を設置して、一橋慶喜を任命するように勅諚が下されました。
こうして将軍後見職は設置されたもの、元治元年(1864)に一橋慶喜が禁裏守衛総督に転じたために廃止となってしまいました。
一橋慶喜役 松田翔太
政事総裁職
政事総裁職は、正式な役職として設置された将軍後見職と同時に新設された江戸幕府の要職の一つ。
文久2年(1862)に朝廷と薩摩藩の「国父」島津久光は、将軍を補佐するために越前国福井藩主・松平春嶽(慶永)を大老にするよう幕府に圧力をかけました。
これに対し、幕府は安政の大獄で謹慎させられていた松平春嶽(慶永)を赦免にして政事総裁職に任命しました。
政事総裁職は大老と老中が譜代大名が就任する慣例があったため、親藩である松平春嶽(慶永)を幕政に参画させるために新たに設置したものでした。
こうして政事総裁職に就任した松平春嶽(慶永)は将軍後見職の一橋慶喜らとともに『文久の改革』と呼ばれる幕政改革を行います。
しかし、翌文久3年(1863)、将軍・徳川家茂の上洛のため、京都にいた松平春嶽(慶永)は、朝廷と幕府の板挟みに遭い辞表を提出し、さっさと越前に帰国してしまいました。
辞表が受け入れられないまま、勝手に帰国してしまった松平春嶽(慶永)は逼塞(門を閉ざして昼間の出入りを許さないもの)処分にされて総裁職を罷免されました。
その後、後任として武蔵国川越藩主・松平直克が政事総裁職に任命されて、参預会議と幕府の意見調整にあたりますが、元治元年(1864)に廃止されました。
松平春嶽(慶永)
京都守護職
京都守護職については以下の記事をご覧下さい。