大河ドラマ西郷どん(せごどん)
文久の改革
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、どちらかと言うと嫌われ役の部類に入る島津久光(青木崇高)。
この久光は、兄の斉彬が死んだ際には遺志を引継ぎ、京都に上って幕政改革と訴えようとしていました。
しかし、この時は父・斉興にバカにされたかのように止められ、上京は叶いませんでした。
父の死後、相変わらず久光は斉彬を超えようと上京に固執し、奄美大島から帰還させた西郷吉之助から罵られながらも上京計画を実行に移します。
今回は、この島津久光が主導して行うことになった幕政改革『文久の改革』について簡単に紹介します。
文久の改革とは?
経緯
幕府による日本の統治、政治は、ペリーの来航による鎖国体制の崩壊から批判を浴び続け、尊王攘夷運動、将軍継嗣問題などの混乱の中で、薩摩藩主・島津斉彬などの開明的な大名らは幕政の改革を叫んでいました。
特に島津斉彬は薩摩から兵を率いて京に上り、朝廷から幕政改革を命令する勅許を出してもらう計画を立てていました。
しかし、斉彬が準備中に急死すると計画は頓挫。
その後、大老の井伊直弼が幕府を批判する者を『安政の大獄』によって処断したために幕政改革への道は閉ざされていきました。
井伊直弼「改革必要なし!」
島津久光の上京
桜田門外の変で兄・斉彬の死後、薩摩藩主となった島津茂久の父・島津久光は事実上、藩の実権を握って兄の果たせなかった率兵上京を計画します。
この時すでに幕府は桜田門外の変で井伊直弼を失っており、続く坂下門外の変や尊皇攘夷運動の激化などによって権威は著しく低下していました。
このため、藩主でもない無位無官の島津久光が幕府に無断で公家と接触するという暴挙を止めることはできませんでした。
一方、京都で活動していた尊王攘夷派の過激な志士たちは、久光の率兵上京の報を聞き、朝廷主導による幕府打倒を期待していました。
しかし、久光が訴えた改革は、あくまで幕政改革・公武一和であったため、尊王攘夷過激派志士らが反発。
暴走を始めようとする薩摩藩の急進派・有馬新七らに対し、久光は粛清を行い意見をまとめました。
文久2年(1862)、久光は軍を率いて京都へ入って公家らに工作を働きかけ、建白書を提出しました。
島津久光「兄のため、国のため、自分のため」
島津久光の建白書
島津久光の建白書の内容は、以下のとおり
①『安政の大獄』の処分者の赦免。
②前越前藩主・松平慶永の大老就任。
③一橋家当主・一橋慶喜の将軍後見職就任。
④過激派尊攘浪士の取り締まり。
これを孝明天皇は受け入れ、勅使を江戸に派遣。
久光ら薩摩兵も随行して江戸へ入り、幕府と交渉を開始しました。
これに幕府内は混乱しましたが、大部分を受け入れることになり幕政改革が行われます。
文久の改革の実施
幕府により実行された改革内容は、以下のとおり
①松平慶永を政事総裁職(新設)に任命。
②一橋慶喜を将軍後見職に任命。
③過激派尊王攘夷浪士の取り締まりのため、従来の京都所司代の上に京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保を任命。
④参勤交代の緩和として、隔年から3年に1度に改め、江戸在留期間を短縮。
⑤人質である大名の妻子の帰国許可。
⑥洋学研究。
⑦幕府陸軍の設置、西洋式兵制の導入。
⑧礼服に用いられてきた長熨斗・長袴を廃止し、実用的な服装による儀礼の簡素化。
文久の改革後
この幕府の改革は一橋慶喜・松平慶永らが政治の表舞台に復帰したことで、さらに進んでいくと考えられていました。
しかし、政治復帰したこの二人は、島津久光と意見が異なったため、すぐに対立してしまいます。
さらに外様大名主導の幕政改革要求に屈した幕府の権威は完全に失墜し、幕府の権力も江戸と京都に二分してしまいます。
一方、京都の政界においても薩摩藩・会津藩などの『公武合体(幕政改革)派』と、長州藩などの『尊王攘夷派』の間で主導権を巡る対立が激化していきました。
一橋慶喜「調子にのんなよ久光!」