大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津斉興(なりおき)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の序盤で、一癖も二癖もある悪役のような活躍をみせるのは加賀丈史が演じる島津斉興(なりおき)。
島津斉興は、西郷吉之助(隆盛)らが心酔する島津斉彬の父親でありながら、斉彬を激しく憎み、側室・お由羅を溺愛して薩摩藩を揺るがす大事件(お由羅騒動)を起こします。
同じ薩摩藩、しかも藩主でありながら「敵」のように描かれるこの島津斉興について、今回簡単に紹介していきます。
島津斉興(なりおき)
島津斉興は、島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。
寛政3年(1791年)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で誕生。初名は忠温。
文化元年(1804年)に元服し、将軍・徳川家斉より偏諱を賜って斉興に改名。
文化6年(1809年)、祖父・重豪によって父・斉宣が強制的に隠居させられ、斉興が家督を継いで第10代藩主となった。
しかし、藩政の実権は重豪に握られており、天保4年(1833年)に重豪が死ぬまで斉興の出番はなかった。
祖父の死後、ようやく藩政の実権を握った斉興は、重豪が登用した調所広郷を重用して藩政改革に乗り出す。
調所広郷は、密貿易や砂糖の専売などの財政改革を行い、祖父が作った500万両の借金も返済目途をつける。
この改革で薩摩藩は経済発展を果たし、幕末の活躍の財政基盤を作った。
その後、斉興は側室のお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、斉彬を廃して久光を後継者にしようと考える。
そこに嫌っていた長男・斉彬が、斉興を藩主の座から下ろすため、密貿易の件を幕府に密告。
責任者の調所広郷は、斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺した。
さらに斉彬の子が次々と夭折したため、薩摩藩では「お由羅の呪い」のせいだと噂され、斉彬を支持する藩士50余名が、お由羅と久光の暗殺を企てた。
嘉永2年(1849年)、この暗殺計画は事前に露見して、斉彬派支持者は粛清された。(お由羅騒動)
その後も、藩内では斉彬派と久光派の対立は続いたが、嘉永4年(1851年)に斉彬に協力した老中・阿部正弘の調停によって斉興は隠居させられ、藩主・斉彬が誕生した。
安政5年(1858年)、斉彬が藩士の訓練を観覧中に急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・茂久が継いだ。
斉興は、茂久が若年であることを理由に再び藩政を掌握。
西郷隆盛ら、斉彬派の家臣を粛清し、安政6年(1859年)に死去するまで藩政は混乱した。