大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津斉彬(なりあきら)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の序盤を引っ張っていくのは、間違いなく渡辺謙が演じる島津斉彬。
父との確執の中、薩摩という小さい枠にとらわれず「日本」という国の将来を憂いた幕末の名君・島津斉彬は、大河ドラマの第1話(初回)から登場し、運命の出会いを経て、西郷吉之助(隆盛)の人格形成にも深く関わっていきます。
さらに斉彬は、次期将軍問題に積極的に関与する幕府内での行動も、この大河ドラマで描かれて物語をより深いものにします。
今回は、西郷隆盛を知るにはまずはこの人「島津斉彬」について簡単に紹介していきます。
島津斉彬(なりあきら)
島津斉彬は、島津氏第28代当主で薩摩藩の第11代藩主。
福井藩主・松平慶永、土佐藩主・山内豊信、宇和島藩主・伊達宗城らと並んで幕末の四賢侯と称された。
斉彬は、文化6年(1809年)に第10代藩主・島津斉興の長男として、江戸の薩摩藩邸で生まれた。
幼少より曾祖父・重豪に可愛がられ、蘭学、洋学に興味を持った。
重豪の蘭癖は、斉彬に革命的な目を養わせた一方で、公金を費やして藩の財政を大きく圧迫させたため、斉彬が藩主になれば重豪の二の舞になると考えた父・斉興はなかなか家督を譲らなかった。
そこで、薩摩藩の財政を立て直した家老・調所広郷や、斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子・久光を次期藩主にしようと画策。
一方、斉彬はお由羅を嫌っていたものの、異母弟・久光との仲も良好であった。
そんな中、斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所広郷らの失脚を図る。(のちに調書広郷は斉興をかばって自害)
また、この頃に斉彬の子が次々と夭折したため、これは「お由羅の呪い」だと考えた斉彬派の側近たちは、久光やお由羅を暗殺計画する。
相次ぐ斉彬とその一派の行動に斉興は激怒し、暗殺計画の首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。
「お由羅騒動」と呼ばれたこの事件は、阿部正弘、伊達宗城、松平慶永らによって収束に向かい、嘉永4年(1851年)に斉興が隠居して、斉彬が藩主に就任した。
藩主に就任した斉彬は、富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などを興す。
また、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護して、藩士に造船法などを学ばせ、洋式帆船「いろは丸」などを完成させる。
さらに、下級武士出身の西郷吉之助(隆盛)や大久保正助(利通)を次々に登用し、のちの明治維新を担う人物を育てた。
斉彬は、幕政にも積極的に口を挟み、阿部正弘に改革を訴え公武合体を主張。
また、自分の養女・篤姫を将軍・家定の正室として嫁がせ、次期将軍に徳川斉昭の子・一橋慶喜を推す。
しかし、安政4年(1857年)に阿部正弘の死去すると、大老に就いた井伊直弼は次期将軍に紀伊藩主・徳川慶福を推した。
対立を深めていく斉彬ら一橋派と南紀派。
すると、大老・井伊直弼は強権を発動して反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始した。
この結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
薩摩に戻った斉彬は、幕府への抗議のため、藩兵を率いて上洛することを計画。
しかし、出兵のための訓練の観覧中に病に倒れ、死去した。享年50歳。
斉彬の遺言によって、久光の長男・忠義(茂久)に斉彬の長女を嫁がせ仮養子とした上で次期藩主とした。
自分の子・哲丸や、久光が藩主となった場合の家督争いを未然に防ぐ、斉彬最後の策であった。