大河ドラマ西郷どん(せごどん)
長州再征
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第33話、一橋慶喜が頑なに主張していた長州征伐が再度始まります。
しかし、この長州再征は以前の長州征伐の時とは違い、長州は薩摩との間に薩長同盟を結んでおり、その薩摩から最新鋭の武器も調達済でした。
この記事では、幕府崩壊の重要なきっかけとなった「長州再征(第二次長州征伐)」について簡単に紹介します。
やってやるよ!長州!
長州再征
長州再征の原因
元治元年(1866)、第一次長州征伐によって長州藩は幕府に恭順の意を示していたが、その後に高杉晋作ら急進派の功山寺決起によって再び幕府に反抗する姿勢を見せたため、慶応2年(1866)に再度、長州へ幕府軍が進発させた。
大島口での戦い
大島口は長州再征での四国方面の戦場、長州藩領である周防国大島を巡る攻防戦。
開戦は幕府の軍艦が砲撃したことにより始まり、伊予松山藩軍や幕府陸軍が大島へ上陸し、長州軍は最新鋭の富士山丸の砲撃に晒されて撤退。
劣勢に立たされた長州軍は第二奇兵隊、浩武隊を派遣し、高杉晋作も丙寅丸に乗って幕府軍艦へ砲撃。
その後、長州軍は大島に上陸して大島を奪回した。
大河ドラマ「花燃ゆ」の高杉晋作
芸州口での戦い
芸州口は長州再征における山陽方面の戦場で、長州藩と幕府歩兵隊や紀州藩兵との戦闘が行われた。
幕府側の彦根藩と高田藩があっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が戦闘に入ると膠着状況に陥った。
幕府軍の本陣が置かれていたため、長州軍は苦戦を強いられたが岩国領主・吉川堅物(経幹)と遊撃隊、御楯隊が善戦して一進一退を繰り返した。
石州口での戦い
石州口は長州再征における山陰方面での戦場。
長州軍は参謀の大村益次郎が指揮し、中立的立場を取った津和野藩を通り抜けて一橋慶喜の実弟・松平武聰が治める浜田藩へ侵攻。
浜田城を陥落させて、石見銀山を奪うなど快進撃を続けて長州軍が圧勝した。
小倉口での戦い
小倉口は長州再征の九州方面の戦場。
幕府軍の総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と、高杉晋作・山縣有朋ら率いた長州軍が関門海峡をはさんで激突した。
幕府軍は強大な海軍力を擁していたが、上陸を躊躇している間に逆に長州軍に上陸され、戦闘の主導権を奪われた。
その後、幕府軍は小倉藩が単独抗戦を強いられる状態に陥るが、肥後藩細川氏の軍が参戦すると長州軍を圧倒する戦いを見せる。
しかし、総督・小笠原長行の消極的な姿勢が不信を強め、諸藩は一斉に撤兵・帰国し、将軍・家茂の死去を理由に小笠原長行自身も戦線離脱した。
完全に孤立してしまった小倉藩は小倉城に火を放って退却し、軍を再編して長州藩への抵抗を続けた。
大河ドラマ「龍馬伝」の高杉晋作
長州再征の終結
厳しい戦いが続く中、家茂が死去。
将軍となった徳川慶喜は自ら出陣して巻き返すことを宣言するも、小倉陥落に衝撃を受けて出陣を中止した。
その後、慶喜は朝廷に働きかけて休戦の勅命を発してもらい、幕府代表・勝海舟と長州代表・広沢真臣、井上馨が会談した結果、停戦合意が成立した。
これで大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息したが、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。
幕府には長州側に停戦の履行を迫る力はすでになく、小倉藩は独自に長州藩への反撃を展開し、慶応3年(1867)1月になってようやく和約が成立した。
長州再征の影響
再征の失敗によって幕府の軍事力の弱体化が世に知れわたり、慶喜は停戦の直後からフランスの支援を受けて幕府陸軍の軍制改革に着手した。
しかし、戦闘に勝利した長州藩や薩摩藩への幕府の影響力は完全になくなり、時代が倒幕に向かって一直線に流れていった。
また、経済的には各藩が戦いの長期化に備えて兵糧米を備蓄したため、米価が暴騰して一揆や打ちこわしが起こり国内が混乱した。
やっちゃった・・・・
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