大河ドラマ西郷どん(せごどん)
西郷寅太郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では、西郷吉之助と糸との間には3人の男子が生まれます。その中で吉之助の嫡男として生まれるのが「西郷寅太郎」。
佳境に入った西郷吉之助の「倒幕」の真っ最中に生まれた西郷寅太郎は、こののちどのような人生を歩んだのでしょうか?
この記事では、天を敬い人を愛した父・西郷隆盛の名に恥じぬ最期を遂げた「西郷寅太郎」について簡単に紹介します。
ちなみに吉之助には奄美大島の愛加那が産んだ長男・菊次郎がいるため、吉之助にとっては寅太郎は次男にあたります。
西郷寅太郎
出生と父との別れ
西郷寅太郎は慶応2年(1866)に、西郷隆盛と糸の子として鹿児島城下の上之園通町で生まれました。
父・隆盛は奄美大島に残した島妻・愛加那との間に長男・菊次郎をもうけていましたが、正妻が産んだ子として「太郎」と名付けられました。(「寅」は生まれた干支にちなんでいる。)
維新後の明治2年(1869)、西郷隆盛が武村の屋敷を購入した頃、奄美大島から8歳の庶兄・菊次郎が引き取られました。(隆盛41歳、糸26歳、寅太郎3歳)
当時、同居していたのは、隆盛の次弟で戊辰戦争で戦死していた吉二郎の後妻・園と2人の子、三弟・従道の妻・清子、居候の川口雪篷、下男の熊吉など使用人たち。
明治10年(1877)に父・隆盛が西南戦争へと出陣した時、わずか11歳の寅太郎は支度を急ぐ父のもとをなかなか離れようとはせず、下男に無理やり抑えられて父を見送ったといいます。
これが寅太郎と隆盛の永遠の別れとなりました。
ドイツ留学、陸軍将校へ
その後、戦死した隆盛は新政府に背いた反逆者として扱われ、寅太郎たち一族は鹿児島で密かに暮らしていました。
しかし、明治17年(1884)に吉井友実や勝海舟等の働き掛けがあり、寅太郎は明治天皇からドイツのポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられます。(寅太郎18歳)
寅太郎のドイツ生活は13年にも及び、その間にプロイセン陸軍少尉にまでなりました。
こののち帰国した寅太郎は、陸軍学校を経て陸軍少尉に任じられ、しばらくすると父・隆盛の功績も認められていきます。
そして明治35年(1902)、隆盛の維新の功によって寅太郎は侯爵を授かり、華族に列せられて貴族院議員に就任しました。
その後、寅太郎は東京俘虜収容所長、習志野俘虜収容所長を歴任。※俘虜=捕虜
当時の日本は捕虜になった人たちを人道的に扱っていましたが、寅太郎の習志野俘虜収容所もその例外ではなく、捕虜たちによるオーケストラや合唱団が演奏会を開き、演劇までも上演されていたといいます。
やはり人を愛した「西郷」
大正7年(1918)、世界中でスペイン風邪(インフルエンザ)が大流行し、寅太郎の習志野俘虜収容所でも猛威をふるいました。
年が明けて大正8年(1919)1月1日、寅太郎は朝から高熱を出していましたが、医師が止めるのも聞かず、馬に乗って収容所へ向かいます。
寅太郎はこの時、年頭のあいさつとして第一次世界大戦の敗戦に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年がドイツ帰国の年となることを伝えようとしていました。
しかし、寅太郎はスペイン風邪から肺炎を発症して倒れ、午後4時にそのまま死去してしまいました。享年53。
ちなみに寅太郎の長男・隆幸は夭折しており、家督は次男の隆輝が継ぎましたが、隆輝には子がいなかったため、その後は寅太郎の三男・吉之助が継いでいます。
西郷どん(せごどん)あらすじ
西郷どん(せごどん)記事まとめ