大河ドラマ西郷どん(せごどん)
久坂玄瑞
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第22話「偉大な兄 地ごろな弟」で西郷吉之助の弟・西郷信吾(錦戸亮)が京都で調子に乗っている時、一緒に酒を飲んでいるのが長州藩士・久坂玄瑞。
大河ドラマ「花燃ゆ」でも、主人公の杉文の夫として序盤に多く露出している久坂玄瑞ですが、今回の大河ドラマでは西郷隆盛が主役ということもありチョイ役的な感じでしかでてきません。
史実でも幕末初期に命を落とし、歴史のひのき舞台から姿を消してしまいますが、この久坂玄瑞は京都における尊王攘夷運動の中心として他の志士たちに多大な影響を与えた人物でした。
今回は、改めてこの久坂玄瑞について簡単に紹介していきたいと思います。
久坂玄瑞(くさかげんずい)
生い立ちと松下村塾
久坂玄瑞は、天保11年(1840)長門国で藩医の子として生まれましたが、15歳の頃には相次いで家族を失ってしまいました。
玄瑞も久坂家の当主として医者の道を進む予定でしたが、安政3年(1856)に九州へ遊学に出ると運命が大きく変わってしまいます。
この遊学で玄瑞は熊本の宮部鼎蔵と出会って、地元の吉田松陰のもとで学ぶことを勧められたのです。
萩に帰った玄瑞は、さっそく吉田松陰に「国防」について自分の考えを記した書状を送りました。
しかし、松陰は痛烈な言葉でこれを酷評し、送り返します。
松陰は玄瑞の書状を見て優秀な人材だと分かり、酷評されても更に反論してくるかどうかを試していました。
すると返書をもらった玄瑞は猛然と反論を記した書状を送りつけます。
しかし、松陰は1ヶ月も書状を放置した挙句、最終的には「空論」だと再び返書を返しました。
「言葉だけでなく、実践せよ」とたしなめられる玄瑞でしたが、この時は何も行動することができず、ついに安政4年(1857)に正式に松下村塾に弟子入りすることにしました。
松下村塾に入ると玄瑞の才能は一気に開花。
高杉晋作と共に「双璧」、さらに吉田稔麿・入江九一と共に「四天王」といわれ、松陰からは「長州第一の俊才」であると評価されます。
さらに松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせるなど、将来を嘱望していました。
大河ドラマ「花燃ゆ」より文
尊王攘夷活動
安政6年(1859)、安政の大獄によって松陰が刑死させられると、玄瑞は各藩の志士たちと交流して尊王攘夷運動を進めていきました。
やがて尊王攘夷運動、反幕府運動の中心人物となった玄瑞でしたが、一方で長州藩の藩論は「公武合体」に傾いていました。
玄瑞は藩の公武合体派の首魁・長井雅楽と何度も議論しますが、藩論が覆ることはありません。
文久元年(1861)の公武合体派の一大イベント・和宮の降嫁が実現して盛り上がる中においても、玄瑞は諦めず、全国の志士と共に「尊王攘夷」の志を貫こうと考えます。
下関の豪商・白石正一郎からの援助も得ながら、玄瑞は薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎らと謀議を重ねていきました。
一方で、松下村塾の同志たちは血盟を交わし、桂小五郎は繰り返し藩に対して長井雅楽弾劾を訴えていました。
玄瑞も長井襲撃まで計画しましたが、時期を逸してしまい京都で謹慎となってしまいました。
しかし、桂小五郎らは諦めず藩主・毛利敬親に攘夷を力説し、ついに長井失脚を成功させました。
その後、長州藩は玄瑞が謹慎中に出した建白書を受け入れて、「尊王攘夷」へと藩論を転換させました。
そして謹慎を解かれた玄瑞は、早速『攘夷』に向けて活動を再開。
桂小五郎とともに朝廷における尊王攘夷派の公家・三条実美、姉小路公知らと結んで、公武合体派の岩倉具視らを排斥し、朝廷の尊王攘夷化に成功。
玄瑞は勅使となった三条実美・姉小路公知と共に江戸へ下って、幕府に攘夷の実行を迫りました。
幕府はこれに対して、将軍・徳川家茂が上京して返答すると答え、時間かせぎをするのが精一杯でした。。
朝廷の掌握に成功
江戸で、玄瑞は高杉晋作とも合流しました。
しかし、晋作の外国人襲撃計画を聞いた玄瑞は反対して大激論を交わします。
結局、玄瑞は晋作の計画を受け入れることになりましたが、報せを聞いた三条実美らの説得を受けて最終的には中止となりました。
このままでは諦めがつかないと思った晋作は、その後に品川に建設中だった英国公使館の焼き討ちを実行しています。
玄瑞は帰国の際、信州で佐久間象山から助言をもらい、その後藩主に詳細を話して伊藤俊輔、井上聞多らの英国留学を実現させました。
英国で学んだ彼ら(長州ファイブ)は帰国後、長州藩にとっても日本にとっても大きな働きをしていくことなります。
一方、幕府は朝廷の攘夷決定にもかかわらず、なかなか実行に移そうとはしません。
これに玄瑞は関白・鷹司輔煕を訪問して建白書を提出し、幕府に対して攘夷期限の確定を求めるよう朝廷に働きかけました。
さらに攘夷祈願の行幸を実現させ、ついに長州藩は朝廷内における指導権を掌握することになりました。
大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞
出典:http://hanamoyu-arasuji.blog.so-net.ne.jp/
攘夷実行とクーデター
攘夷実行に向けて帰藩した玄瑞は、関門海峡を通航する外国船への砲撃準備のため光明寺党を結成します。
他藩の士や身分にとらわれない光明寺党は、のちの奇兵隊の前身となっていきました。
そして玄瑞は公卿・中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、外国船砲撃を実行。
大した成果は得られませんでしたが、これにより長州藩はついに「攘夷」実行を果たしました。
同じ頃、京都では朝廷における攘夷派の長州協力者・姉小路公知が薩摩藩の田中新兵衛に暗殺されました。
このため朝廷との繋がりが薄れることを恐れが長州藩は、すぐに玄瑞を京都に向かわせました。
京都に着いた玄瑞は、朝廷に対して攘夷実行の報告を行い、高い評価を得ます。
さらに朝廷は各藩に対して長州藩に見習って速やかに攘夷を実行するよう通達を出しました。
玄瑞の活躍によって朝廷で絶大な影響力を持った長州藩でしたが、突如としてその地位から引きづり下されます。
玄瑞が京都で政治活動中、長州藩はアメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、軍艦二隻を撃沈された上に寺や民家まで焼かれしまいます。
長州の独断攘夷を問題視していた幕府は、これを期に会津、薩摩、中川宮朝彦親王ら公武合体派と共に長州藩を朝廷から排除する動きに出ました。
八月十八日の政変と呼ばれたクーデターにより、攘夷の延期、長州派公卿の更迭が行われると、長州藩は宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りも禁じられてしまいました。
幕府による長州排斥の裏側には、孝明天皇の「『攘夷』は希望するが『倒幕』は反対」という考えがあったといいます。
禁門の変と玄瑞の最期
朝廷から追い出された長州藩は、何とか挽回を図ろうと玄瑞を京都に留めて策を練りました。
三条実美、真木和泉、来島又兵衛らは「兵を上げて京に赴き無実を訴える」という考えを示しますが、玄瑞と桂小五郎は反対していました。
しかし元治元年(1864年)4月、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都を離れると、玄瑞は好機到来と捉えて、急遽、武力蜂起に賛成します。
また、池田屋事件などがあったため、復讐心にかられた長州藩士たちが上京に対して大いに意気込みました。
そんな中でも玄瑞は冷静であり続け、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草して朝廷に奉っています。
この時点では諸藩や公家たちも長州藩に同情的であり、寛大な措置を要望する声がありました。
しかし、薩摩藩兵が京に到着すると形勢が一気に変わっていきます。
玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出しました。
しかし、来島又兵衛が猛反対し、参謀の真木和泉も来島に同意してしまいます。
仕方なく玄瑞は陣に戻り、ついに長州軍は2,000の兵をもって、2万とも3万ともいわれる敵に戦いを挑むこととなりました。
戦いでは蛤御門で会津藩と交戦していた来島又兵衛が、薩摩藩の狙撃で負傷して長州軍は総崩れ。
この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛でした。
玄瑞、真木らの隊は、既に味方が総崩れとなっていることを知っていましたが、玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めました。
そして鷹司邸の裏門から入った玄瑞は、鷹司輔煕に朝廷へ嘆願をさせて欲しいと頼みました。
しかし、これを鷹司輔煕は拒絶し、玄瑞を振り切って邸から脱出してしまいます。
そこに越前藩が表門から邸内を攻め始めると、長州兵は各自逃亡を始めました。
炎上する鷹司邸の中、玄瑞は共に自刃しようとする入江九一を説得し、後を託します。
しかし、入江は脱出する際に越前兵に見つかって討ち死。
残った玄瑞は寺島忠三郎と刺し違えて自害し、25歳という短い生涯を遂げました。
大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞の最期
西郷どん(せごどん)あらすじ
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