大河ドラマ西郷どん(せごどん)
八月十八日の政変
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第26話、西郷吉之助は沖永良部島から復帰し、すぐに京都に上っていますが、この頃の京都は吉之助が島流しに遭う前とかなり状況が変わっていました。
有馬新七たちが命を落とした寺田屋騒動に代表される尊王攘夷志士たちの運動は影を潜め、長州藩びいきの者達から薩摩藩は「薩賊」と呼ばれて嫌われていたのです。
これは尊王攘夷運動を主導してきた長州藩が、会津藩と薩摩藩によって京都を追われたことが原因でした。
今回は、薩摩藩がやたらと嫌われるようになったクーデター「八月十八日の政変」について簡単に紹介していきます。
八月十八日の政変
尊王攘夷派の暴走
文久3年(1863)、京都には長州藩を中心とした尊皇攘夷派派志士が各地から集まり、反対派を暗殺するなど過激な行為が横行していました。
学習院では尊皇攘夷派志士の真木和泉、久坂玄瑞らのような草莽の士が影響力を持ち、また朝廷内でも三条実美や姉小路公知といった尊王攘夷急進派が実権を握っていました。
そんな中、熱心な攘夷主義者であった孝明天皇の攘夷祈願の行幸が相次ぎ、ついに朝廷は将軍・徳川家茂に対して「5月10日は攘夷決行の日」とすることを約束させます。
そして迎えた5月10日、長州藩は下関でアメリカ船に砲撃して攘夷実行を果たしました。
しかし、他藩は長州藩が欧米各国から報復攻撃を受ける中、知らんぷりで将軍・家茂も江戸に帰ってしまいました。
この状況を変えるため、三条実美ら尊皇攘夷派は天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)を計画。
計画に関わった真木和泉らは、その後の「倒幕」まで考えていました。
長州藩の攘夷実行
出典:https://japan-heritage.bunka.go.jp/
クーデター決行
一方、孝明天皇は尊皇攘夷急進派の行き過ぎた行動を快く思っていませんでした。
天皇は三条実美らを排除するため、薩摩藩主・島津久光に期待を寄せていましたが、薩英戦争で久光の上京は叶いませんでした。
ここに目をつけた会津藩、薩摩藩など公武合体派グループは、中川宮朝彦親王の協力を得て、朝廷の尊皇攘夷派を追い出す計画を立てます。
そして8月16日に中川宮が参内して天皇を説得すると、翌日には天皇から中川宮に密命が下りました。
8月18日、会津藩は兵1500名、薩摩藩兵は150名を動員して早朝4時頃に御所の警備配置が完了。
同時に朝廷は三条ら尊攘急進派公家に外出禁止と面会禁止を命じ、大和行幸の延期や、尊王攘夷派公家や長州藩主の処罰を決定しました。
この政変により、長州藩兵1,000人は失脚した三条実美ら尊王攘夷派公家7人とともに長州へと下っていきました。(七卿落ち)
八月十八日の政変に協力した皇族
七卿落ち
尊王攘夷運動の終焉
政変後、孝明天皇はこれまでの勅命を自ら否定。
政変の前日に、土佐浪士・吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵していましたが、政変によって状況は一変しており9月末には壊滅(天誅組の変)。
また、10月には平野国臣らが京都を追われた公家の一人・澤宣嘉を担ぎ上げて但馬国生野で挙兵しますが、諸藩に包囲されて敗北します(生野の変)。
この八月十八日の政変により、急進的な尊皇攘夷運動は停滞し、島津久光、松平春嶽(慶永)・山内容堂(豊信)ら公武合体派大名が入京。
朝廷の任命で島津久光・松平春嶽・山内容堂・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による合議制会議「参預会議」が成立しました。
一方、政変に京都を追われた長州藩は権力奪還を狙い、池田屋事件をきっかけに京都へ出兵。
禁門の変で会津藩・薩摩藩らと相対することになります。