大河ドラマ西郷どん(せごどん)
吉村虎太郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第22話「偉大な兄 地ごろな弟」で西郷吉之助の弟・西郷信吾(錦戸亮)が京都で一緒に酒を飲んでいるのが土佐脱藩浪士・吉村虎太郎という男。
幕末における土佐藩士といえば、まず浮かんでくるのが坂本龍馬。そしてその周辺で活躍した中岡慎太郎、武市半平太、岡田以蔵などですが、イマイチ有名になりきれないのがこの吉村虎太郎です。
しかし、この吉村虎太郎は、長州藩の久坂玄瑞と並んで京都における尊王攘夷運動の先駆けとなり、他の志士たちに多大な影響を与えた人物でした。
今回は、過激な行動を起こしたために切り捨てられてしまった吉村虎太郎について簡単に紹介していきたいと思います。
吉村虎太郎
土佐勤王党
吉村虎太郎は、土佐国の庄屋・吉村太平の長男として生まれました。
郡役人の間崎哲馬に学問を教わり、城下で武市半平太に剣術を学んだ虎太郎は、やがて尊王攘夷思想に目覚めていきます。
そして文久元年(1861)に武市半平太が土佐勤王党を結成すると、虎太郎はすかさず加盟。
虎太郎は、半平太の命で長州へ行き、久坂玄瑞に手紙を渡すなど重要な任務をこなしていきます。
さらに虎太郎は九州へ渡って平野国臣から薩摩の「国父」島津久光の率兵上京計画に合わせた浪士たちの挙兵計画を聞きました。
これを聞いて興奮した虎太郎は急いで土佐へ戻り、半平太に土佐勤王党も脱藩して参加するように主張します。
しかし、半平太は藩を挙げての行動を計画していたため、この主張を退けます。
諦めきれなかった虎太郎は少数の同志と共に脱藩し、久坂玄瑞を頼って上方に集まる尊王攘夷浪士たちと合流することにしました。
寺田屋騒動
虎太郎がが向かった京都、大坂には、すでに平野国臣、真木保臣、清河八郎、有馬新七などの尊王攘夷浪士たちが集まっており、島津久光の「倒幕挙兵」の上洛を待ちわびていました。
しかし、当の島津久光は「倒幕」などは考えておらず、上洛は幕政改革を求めた「公武合体」の考えを持っていました。
そして尊王攘夷浪士の計画を知った島津久光は、その動きを抑えようと動き出します。
これに不満に持った虎太郎、有馬新七らは、一部の者たちだけでも当初の挙兵を実行することを計画。
しかし、島津久光によって粛清を命じられた薩摩藩士たちによって、アジトとしていた寺田屋に踏み込まれてしまいます。
薩摩藩士同士の壮絶な斬り合いののち、有馬新七は死亡。
虎太郎も捕えられて薩摩藩から土佐藩に身柄を引き渡され、国元で禁獄されるという処分を受けました。
しかしその後、世の中が尊王攘夷派に有利な状況に変わり、安政の大獄、寺田屋騒動の関係者の赦免が諸藩で行われるようになると、虎太郎も釈放されることになりました。
出典:https://bakumatsu-ishinhaku.com/
攘夷実行
文久3年(1863)、8カ月間禁獄されていた虎太郎は、牢から出たのち藩に遊学の許可をもらって再び京へ上ります。
このころ将軍・徳川家茂は、朝廷から速やかに攘夷決行をするよう約束させられていました。
そんな中、長州藩は単独で攘夷を実行を計画し、虎太郎はこれに公家・中山忠光を参加させるため京都出奔を手伝いました。
その後、長州藩は関門海峡で外国船に砲撃し攘夷成功を喜びましたが、すぐに米仏艦隊の報復に遭って為す術もなく敗退してしまいました。
天誅組結成
一方、京都では真木保臣が献策し、攘夷派の公家・三条実美らによって大和行幸の詔が発せられます。
内容は孝明天皇が大和国橿原にある神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うというものでした。
これに虎太郎は同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画します。
虎太郎は、長州に出奔したため謹慎させられていた中山忠光を連れ出し、京都を出発。虎太郎たちは「天誅組」と呼ばれるようになります。
大和国に入った天誅組は、五条代官所を襲撃し代官の首を斬って、ついに倒幕の兵を挙げました。
そして五条の幕府領地を「天朝直轄地」にすると宣言し、中山忠光を主将、虎太郎たちを総裁として「御政府」を称しました。
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天誅組壊滅
天誅組が行動を起こす発端を作った三条実美は、この虎太郎たちの行き過ぎた行動を危惧していました。
三条実美は天誅組に自重を促そうとしましたが、そんな折に八月十八日の政変が起こって三条実美ら尊攘派の公家たちは失脚し、長州藩も京都から追い出されてしまいます。
そして朝廷内では大和行幸の詔は偽勅とされ、大和行幸もなくなって天誅組は完全に孤立しました。
それでも虎太郎は、幕府の討伐軍を戦うため十津川郷士1,000人の兵を集めます。
こうして膨れ上がった天誅組は、まず兵糧の差出を拒絶した高取藩を攻撃しました。
しかし、所詮は寄せ集めの衆。
高取藩兵の銃撃を受けると、あっという間に敗走してしまいました。
虎太郎は決死隊を編成して夜襲による形勢逆転を狙いましたが、これも高取藩に見つかって撤退。
このとき虎太郎は、味方の誤射を受けて重傷を負ってしまいます。
その後、天誅組は周辺諸藩の攻撃を受けて各地で敗退し、主将・中山忠光が「逆賊」とされると頼りの十津川郷士も離反。
中山忠光は脱出に成功しましたが、残る天誅組のほとんどが戦死、捕縛されました。
虎太郎は、傷がもとで歩行困難となっており、逃亡のため駕籠に乗っていたところを津藩兵に発見されて射殺されました。
享年27。辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」でした。