大河ドラマ西郷どん(せごどん)
平岡円四郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第26話で、大久保一蔵は必死に他藩の藩士たちを接待していますが、その中の一人が一橋慶喜の側近・平岡円四郎です。
この26話の中で慶喜と西郷吉之助が久しぶりの対面を果たして信頼を深めたのですが、直後にこの平岡円四郎が慶喜の身代わりとなって殺され、慶喜は急に人を信用しなくなります。
この記事では、慶喜が死を悼んだ一番の側近「平岡円四郎」という人物について簡単に紹介していきます。
犯人についてはコッチ↓
平岡円四郎
平岡円四郎は、文政5年(1822)に旗本・岡本忠次郎の子として生まれました。
若い頃から聡明だった円四郎は、旗本・平岡文次郎の養子となり、前水戸藩主・徳川斉昭の腹心として活躍していた藤田東湖や、幕府の重臣・川路聖謨から才能を見出されていました。
そして徳川慶喜が一橋家に養子に入ると、平岡円四郎は藤田東湖や川路聖謨から一橋家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることになります。
その後、13代将軍・徳川家定の後継者問題が起こり、徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬らが「一橋派」を形成して慶喜を推すと、平岡円四郎も主君を次期将軍にしようと働きました。
慶喜の側にいた平岡円四郎は、その英邁さに惚れ込んでいましたが、当の慶喜には将軍になる気がありませんでした。
それでも平岡円四郎は、慶喜が「やめろ」というのも聞かず「14代将軍・徳川慶喜」を実現させようと「橋公行状記」というものを書き起こします。
これは一橋慶喜の輝かしい業績や言葉を記述し、いかに次期将軍にふさわしいかを訴えた推薦状で、大河ドラマ西郷どん(せごどん)の中で橋本左内が必死でコピーを作成し、西郷吉之助と諸藩にバラまこうとしていたものです。
しかし、結局は大老・井伊直弼によって次期将軍には徳川慶福(家茂)が決まって「一橋派」は敗北。
直後に始まった安政の大獄で、平岡円四郎は「一橋派」の危険人物としてマークされ、左遷されてしまいました。
その後、桜田門外の変、島津久光の幕政改革要求を経て、慶喜が将軍後見職に就任すると平岡円四郎も復帰。
慶喜からの信頼され、寵愛を受けていた平岡円四郎は、文久3年(1863)の慶喜上洛にも随行し、一橋家家老並に任命されるなど出世街道を駆け上がります。
しかし、京で慶喜が公武合体派の中心となってしまうと、水戸藩の尊王攘夷派志士たちの怒りの矛先は平岡円四郎に向かっていきます。
そして元治元年6月16日(1864年7月19日)、平岡円四郎は裏で動いて慶喜をそそのかす「奸臣」として暗殺されてしまいました。享年43。