大河ドラマ西郷どん(せごどん)
橋公行状記(はしこうこうじょうき)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第14話、一橋慶喜を次期将軍にするため、磯田屋で西郷吉之助は橋本左内と話し合い「橋公行状記」というものを幾島や諸藩にバラまこうと考えました。
そこに話を盗み聞きしていた一橋慶喜が乱入し、この「橋公行状記」を破って火鉢の中に捨ててしまいます。
このころ一橋慶喜は将軍になんかなりたくないと考えており、二人の行動は全くもって余計なお世話だったのです。
今回は、この焼かれてしまった「橋公行状記」について簡単に紹介します。
ちなみに焼かれてしまったものの、橋本左内は「橋公行状記」のコピーを何枚か持っています。
橋公行状記
「橋公行状記」とは、一橋慶喜の輝かしい業績や言葉を記述し、いかに次期将軍にふさわしいかを訴えた推薦状。
一橋家の小性・平岡円四郎が慶喜の英邁さに惚れ込み、「やめろ」というのも聞かず、慶喜を14代将軍に推すためにこの「橋公行状記」を書き起こしました。
慶喜という人物がどんな人であり、どんな思想を持っているのかを書いた「橋公行状記」は、のちに橋本左内が加筆訂正し、越前福井藩主・松平慶永(春獄)によって反対派の老中・松平忠固や久世広周に届けられました。
当時の慶喜は強固に攘夷を主張する前水戸藩主・徳川斉昭の息子であることから、世間からは慶喜も攘夷派であると考えられていました。
慶喜は父・斉昭のことは慕ってはいましたが、斉昭の政策方針については批判的な考えを持っていて『開国』を推進していたことが「橋公行状記」から分かります。
慶喜は優れた西洋の砲術や航海術について学ばなくては日本の軍備を整えることはできないと考え、孫子の兵法「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」を主張しています。
また「対外政策に関しては色々と意見する者が多いが、実際に事にあたっている者は言わないもの、言う者は何も知らない者だ。みだらに私論を述べることは避けよ」と語っています。
慶喜の意見は「外国との戦争は実に愚かなことであるが、『通商交易を許可すれば安心』と判断するのは浅はかな考えで、西洋各国と対等に付き合うには皆が心を合わせ『富国強兵』を目指さなければならない」というものでした。
実際、慶喜は口だけが達者な人物ではなく、幕府の『開国』政策に噛みついていた父・斉昭が就いていた海防参与の職を、裏から手を回して解任させたりしています。
この「橋公行状記」が書かれたとき、慶喜はまだ21歳。
どこまで本人の意見なのかはよく分かりませんが、幼い頃から天才と噂され、様々な人から次期将軍に推されたという理由が分かると思います。
史実に残る逸話では、西郷吉之助は左内が加筆訂正した「橋公行状記」を見せて欲しいと依頼し、そのことに承諾した左内からの手紙を、吉之助は死ぬまで肌身離さず持っていたといいます。