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【そうせい候・毛利敬親(慶親)】西郷どん(せごどん)明治維新を主導した長州の藩主は暗君なのか?真の名君か?

投稿日:2018年7月18日 更新日:

大河ドラマ西郷どん(せごどん)
そうせい候・毛利敬親(慶親)

大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第27話で禁門の変を引き起こした長州藩は、第28話になって幕府から長州征伐の軍をおこされます。

日本国内での内乱を避けようとした島津斉彬の遺志を引き継ぐ西郷吉之助は、ここで長州征伐を計画した一橋慶喜に見切りをつけ、長州藩を幕府に恭順させて戦を終わらせることに尽力しました。

この時、吉之助が長州藩に対して恭順の条件に出したのが「禁門の変を引き起こした長州藩の三家老の切腹」と「長州藩主の毛利敬親、定広親子の謹慎」でした。

この記事では、吉之助の提案によって謹慎することになる長州藩主・毛利敬親(たかちか)の生涯について簡単に紹介していきます。

明治維新を主導した長州藩のトップでありあがら、自分の意見を持たず、家臣たちに「そうせい」と言って政治のほとんどを任せていた毛利敬親。

人によって評価が分かれる人物ですが、私はこの「そうせい候・毛利敬親」が大好きですので最後の方は、かなり脚色して書いちゃってますww。ごめんなさい。

 

出典:http://heisei-shokasonjuku.jp/

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毛利敬親(慶親)

長州藩主へ

毛利敬親は文政2年(1819)、毛利一門である福原家・福原房昌の長子として生まれました。

父・房昌は毛利本家に戻り、毛利斉元と改名して後に第11代藩主となる人物。

敬親も当初は「教明」と名乗っていました。

天保7年(1836)、萩城下で「申歳の大水」といわれる大洪水が発生し、復興する時間もなく3ヶ月後には父・斉元が死去。

跡を継いだ第12代藩主・毛利斉広も20日足らずで死去してしまい、長州藩にとって苦難の日々が続きます。

そんな中、教明は斉広の養子になって天保8年(1837)に毛利本家を相続し、藩主に就任しました。

 

 

出典:http://kazahana.holy.jp/

 

 

家督相続にあたっては、父・斉元が生前に決めていた教明と斉広の長女・都美姫の婚儀が尊重されましたが、この時は姫がわずか5歳だったため、正式な婚儀は10年後まで持ち越されています。

その後、教明は第12代将軍・徳川家慶から「慶」の一字を与えられて「慶親(よしちか)」に改名しました。

 

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家臣任せの「そうせい候」

天保9年(1838)に毛利慶親は萩に入り、質素倹約の推進と貨幣流通の改正を行いました。

しかし、大洪水の復興からまだ間もなく、財政難に陥っていた長州藩。

慶親はそれを理解し、お国入りの際は質素な身なりで現れ、民衆は大いに感激したといいます。

 

そして慶親は村田清風を登用して藩政改革を断行し、村田清風の死後は共に改革を担っていた坪井九右衛門に引き継がせて、領内の実態調査と藩の軍事力の強化に努めました。

さらに嘉永2年(1849)に藩校・明倫館の改革を行い、その後長州藩は家柄や年齢にこだわらない優秀な人材を輩出していくことになりました。

 

 

大河ドラマ「花燃ゆ」の毛利慶親

出典:http://lonpari2.blog.shinobi.jp/

 

 

また、慶親自身も11歳も年下の下級武士・吉田松陰の門下となるなど身分にとらわれず、分け隔てをしない人柄で、多くの長州志士から慕われていました。

慶親は「儒者の講義は、ありきたりの言葉ばかりで眠くなるが、松陰の話は聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったといいます。

 

吉田松陰とはじめとする優秀な家臣たちに恵まれていた慶親。

家臣の意見に対しては異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」と返答していました。

このために「そうせい侯」と揶揄され、明治維新を主導した長州藩のトップでありながらも、一部の者からは賢い藩主ではないと評価を受けています。

 

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攘夷?開国?揺れる長州

嘉永6年(1853)、ペリーが来航すると長州藩は相模国周辺の警備にあたり、「攘夷」の機運が醸成されていきます。

安政5年(1858)、藩政改革を担ってきた坪井九右衛門が引退したため、毛利慶親は新たに周布政之助らを登用。

すると長州藩は周布政之助を中心にして「攘夷」に藩論がまとまっていき、藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始していきました。

 

 

「花神」の毛利慶親

出典:https://ameblo.jp/

 

 

そんな中、文久元年(1861)に慶親が長井雅楽を登用すると長州藩の藩論が大きく揺れました。

長井雅楽は「開国」によって積極的に世界と通商して国力を養い、その上で諸外国と対抗する「航海遠略策」を説いて、慶親もこれを支持したからです。

そして長州藩は長井雅楽の献策に乗っ取り、朝廷と幕府の協調連携を模索していきました。

しかし、この政策は強固な「攘夷」派であった周布政之助、久坂玄瑞らの反発を招き、さらに政局の主導権を長州藩に握られることを嫌った薩摩藩の妨害を受けて失敗に終わります。

長井雅楽は失脚し、長州藩の藩論は一時的に緩まっていた「攘夷」に統一されていきました。

 

その後「攘夷」を実行すべく長州藩は、文久3年(1863)に藩庁を海防上の理由から萩城から山口城に移転。

5月10日を攘夷実行の日として、長州藩は下関を通過する外国船に向かって砲撃しました。

 

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長州藩、存亡の危機

全国に先駆けて攘夷実行を果たし、意気揚々としたのもつかの間、長州藩はここから日本全国を敵に回す状況に陥ります。

まず、過激な尊王攘夷を嫌った孝明天皇の意を受け、薩摩藩と会津藩が「八月十八日の政変」を起こして長州藩を京都から追放。

さらに翌元治元年(1864)に「池田屋事件」が発生し、多くの長州藩士が新選組によって殺害・捕縛されてしまいました。

これら京都での事件により、激昂した3人の家老(福原越後、益田右衛門介、国司信濃)と久坂玄瑞、来島又兵衛らは挙兵を計画。

長州藩は京都で「禁門の変」を引き起こして、朝敵となってしまいます。

この頃、毛利慶親が藩主として、どこまで賛同していたのか分かりません。

もしかすると挙兵は本心ではなく、長井雅楽の政策失敗から決定権を失い、家臣たちの過激な意見を受け入れることしかできなかったのかもしれません。

 

 

大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞

主典:https://todaynews01.com/

 

 

一方、朝廷では「禁門の変」と起こした長州藩の暴挙に対し、幕府に長州征討を命じることになりました。

朝敵としてラスボスになってしまった慶親は、官位を剥奪されて名前も「敬親(たかちか)」と改名。

そこへタイミング悪く、前年の外国船砲撃の報復として英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に現れます。

艦隊の砲撃によってコテンパンに長州藩は叩きのめされると、幕府はこれを好機と捉えて第一次長州征伐を開始し、長州藩は存亡の危機に陥りました。

 

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恭順から倒幕へ

毛利敬親は藩政は家臣任せでしたが、この長州藩の危機という重要な局面では自ら決断を余儀なくされます。

幕府軍が長州に迫る中、午前4時から会議が開かれましたが、午後7時になっても意見がまとまらず結論は出ませんでした。

すると、敬親は家臣の意見が出尽くしたところで初めて口を開き「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べて席を立ち去りました。

この敬親の決断により、幕府に恭順の意を示すことになった長州藩。

結果、禁門の変を引き起こした3人の家老(国司信濃、益田右衛門介、福原越後)に切腹を申し付け、敬親も謹慎することで長州藩は潰されずに済みました。

 

しかし、慶応元年(1865)になると、長州では松下村塾出身の高杉晋作らが挙兵して保守派を打倒するクーデターが起こります。

これで長州藩は倒幕派が主導権を握り、奇兵隊などの民間の軍事組織を整備。

さらに、ゲベール銃やミニエー銃などの新式兵器を購入して大規模な軍事改革を行い、倒幕に向けて備えていきました。

 

 

大河ドラマ「龍馬伝」の高杉晋作

出典:http://blog.livedoor.jp/

 

 

その後、慶応2年(1866)には坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐では幕府軍に完全勝利。

慶応3年(1867)には朝廷から討幕の密勅を受け、長州藩は薩摩藩と共に官軍を組織して上洛し、王政復古の大号令を成功させました。

この翌年には藩主・敬親も上洛して明治天皇に拝謁し、左近衛権中将に任ぜられています。

 

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「そうせい候」最後の仕事

慶応4年(1868)、明治新政府の中枢にいた旧長州藩士・木戸孝允(桂小五郎から改名)は、毛利敬親に対して版籍奉還を促しました。

これは明治維新の一環として、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還しようとする政治改革で木戸孝允自身が発案したものでした。

大名が大名でなくなるこの制度の施行には、かなりの反発があると予想されたため、木戸孝允は全国の諸大名を納得させるためにも、まずは長州藩・毛利家が率先して模範を示す必要があると考えます。

しかし、木戸孝允は主君を追い落とすようなこの改革を、毛利敬親は受け入れてくれるか不安に感じていました。

 

 

大河ドラマ「西郷どん」の木戸孝允(桂小五郎)

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

 

間もなく山口に向かった木戸孝允は毛利敬親と対面し、緊張しながら毛利家の版籍奉還を持ち掛けました。

失望や叱責、あらゆる負の言葉を浴びせられることを想定していた木戸孝允でしたが、毛利敬親から出た言葉は全く予想外のものでした。

そう。幕末の動乱期、何度も聞いた懐かしいあの一言です。

 

 

 

 

 

「 そうせい 

 

 

 

 

 

思わぬ言葉に木戸孝允はあっけにとられましたが、次の瞬間には大粒の涙が溢れ出ていました。

 

さらに木戸孝允は、去り際に自分に対して気遣いの言葉をかける敬親に、計り知れない器の大きさを感じました。

「自分の仕えた主君は、もしかするととんでもない賢君だったのかもしれない。」

 

その後、長州藩・薩摩藩・土佐藩・肥前藩は連署して版籍奉還が行われ、長州藩のトップとしての責任を終えた敬親は、明治4年(1871)に山口藩庁で息を引き取りました。享年53。

 

出典:http://yagan.hatenablog.jp/

 

 

日本ためという主張が強すぎて過激な行動に走った者、藩のため慎重にならざるを得なかった者、藩内で互いに命を奪い合うほど対立した両者の頂点にいたのは、まぎれもなく藩主の毛利敬親でした。

最後の最後まで「そうせい(任せる)」を徹底した毛利敬親の信念があったからこそ、個性的な長州藩士の才能がさらに引き出されていったのだと思います。

 

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