大河ドラマ西郷どん(せごどん)
毛利元徳(定広)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第28話で起こる幕府による長州征伐。
一橋慶喜は禁門の変を引き起こした長州藩を潰すため、征伐を決定しましたが、日本国内での内乱を避けようとする西郷吉之助は旧知の仲である慶喜に見切りをつけ、長州藩を幕府に恭順させて血を流すことなく戦を終わらせること画策しました。
そして吉之助は単独で長州に乗り込み、長州藩に対して「禁門の変を引き起こした長州藩の三家老の切腹」と「長州藩主の毛利敬親、定広親子の謹慎」を条件に恭順の意を示すように要求します。
この記事では、吉之助の提案によって謹慎することになる毛利敬親の世継ぎ・毛利元徳(定広)について簡単に紹介していきます。
【第一次長州征伐において処分を受けた者一覧】
毛利元徳(定広)
毛利定広(元徳)は長州藩祖・輝元の男系の血筋を伝える毛利の分家・徳山毛利家の出身ではじめ名前を「広封」といいました。
徳山藩の第8代藩主であった毛利広鎮の十男として生まれ、兄には第9代藩主となる毛利元蕃や、のちに長州藩の国家老となって禁門の変を引き起こす福原越後、山形藩主となった秋元志朝らがいました。
この徳山毛利家は、江戸時代初期の第3代藩主・元次の代に領民の立木の伐採をめぐって毛利本家と対立し、一時的に改易されて本家の後継候補から外された過去があり、これが元で長らく長州藩内に確執を生んでいました。
しかし、時は流れて嘉永5年(1852)、長州藩主の毛利慶親(敬親)に子供がいないため、広封が養子に入ります。
さらに正式に世継ぎとなった元徳は、第13代将軍・徳川家定から「定」の一字をもらい「定広」と名乗ることになり、安政5年(1858)には慶親の養女・銀姫(長府藩主・毛利元運の娘)と婚儀を挙げました。
大河ドラマ「花燃ゆ」の毛利元徳(定広)
本家、分家の確執も解消された長州藩は、尊皇攘夷運動の急先鋒と成長。
定広も元治元年(1864)の「禁門の変」に際して、公卿・三条実美らを伴って兵を率いて京都に向かっています。
しかし、定広は上洛途中で長州藩の敗北を知って、やむなく山口に引き返すことになりました。
そして「禁門の変」で朝敵とされた定広は、幕府により官位を剥奪され「定」の字も召し上げられて、広封に戻すことになりました。
その後、長州征伐が始まり、広封は敬親(慶親から改名)と共に謹慎。
明治維新後に「元徳」と改名して慶応4年(1868)に上洛して議定に就任すると、翌年に隠居した敬親の跡を継いで参議となり、版籍奉還で知藩事となりました。
明治4年(1871)、廃藩置県が断行されると元徳は免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となったのち、明治29年(1896)に死去。享年57。
出典:http://www.i-unic.com/