大河ドラマ西郷どん(せごどん)
福原越後(ふくはらえちご)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第28話で、一橋慶喜は長州藩を叩き潰すべく長州征伐を決定しました。
征長軍参謀として参陣させられた西郷吉之助は、日本国内での内乱を避けるため、勝海舟のアドバイスもあってここで一橋慶喜を見限り、長州藩を幕府に恭順させようと画策します。
そして吉之助が長州藩に出した条件が「藩主・毛利敬親・定広親子の謹慎」と「禁門の変を引き起こした3人の家老の切腹」。
この記事では、吉之助が出した長州藩への条件「3人の家老の切腹」で果てた名臣・福原越後(ふくはらえちご)について簡単に紹介します。
福原越後(ふくはらえちご)
福原越後は、長州藩の支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の六男で文化12年(1815)に生まれた。
越後は通称で本来の名前は元僴(もとたけ)。
大名の子でも越後は六男であるため、12歳の頃には長州藩寄組・佐世親長の養子となりました。
嘉永4年(1851)に越後は家老に昇進しますが、佐世家は大名の血筋が入る養家としては家格が低すぎました。
そこで安政5年(1858)、越後は藩命で代々家老職を継いでいる福原家の家督を継承し、国家老として藩主・毛利慶親(のちの敬親)を補佐していくことになりました。
寡黙で温厚だった福原越後は、揺れ動く国内情勢の中、長州藩の中枢を担って尊王攘夷運動を推進します。
八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、福原越後は同じ家老の益田右衛門介や国司信濃と連携し、久坂玄瑞、来島又兵衛らと共に挙兵。
福原越後も長州藩主力軍の総大将として進軍していましたが、途中で銃撃を受けて負傷し、あえなく惨敗してしまいました。
その後、第一次長州征伐が起こると、長州藩内では保守派が主導権を掌握しました。
禁門の変を引き起こした上、逃げ帰ってきた福原越後は、保守派に逆らうことができず、益田右衛門介や国司信濃と共に責任を取る形で岩国龍護寺で自刃しました。享年50。
辞世の句は「くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする」。
【第一次長州征伐において処分を受けた者一覧】