大河ドラマ西郷どん(せごどん)
山内容堂(豊信)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第26話で薩摩の国父・島津久光は、朝廷・幕府・雄藩が力を合わせた新しい政治をするため「参預会議(参与会議)」に出席します。
久光は自分の功績があったからこそ、いささか調子に乗っていますが、その鼻をポッキリへし折るのが将軍後見職の一橋慶喜。
慶喜は久光を「芋」と罵って怒らせ、まともな話し合いをしようとはしません。
このため、この参預会議はすぐに崩壊してしまうのですが、会議には久光のほかにも他の藩主クラスの人間が出席していました。
その中にいたのが、大河ドラマ龍馬伝で近藤正臣さんが演じていた山内容堂(豊信)。
今回は、島津家と関係の深かった土佐藩の巨魁・山内容堂(豊信)について簡単に紹介します。
大河ドラマ「龍馬伝」での山内容堂
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山内容堂(豊信)
土佐藩主就任
山内豊信(容堂)は分家の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男として文政10年(1827)に生まれました。
豊信の身分は山内家の中で最も低く、藩主の座など望める立場にありませんでした。
しかし、山内本家は13代藩主・山内豊熈が急死すると、跡を継いだ14代藩主・山内豊惇が在職12日で死去。
当然、豊惇は跡継ぎを決めていなかったため、山内家は断絶の危機に陥ります。
そこで立ち上がったのが、薩摩の島津斉彬の妹で豊熈の妻となっていた智鏡院(候姫)でした。
智鏡院(候姫)は島津家と共に幕府老中首座・阿部正弘に働きかけ、分家で当時22歳の豊信を藩主にしようとゴリ推し。
こうして嘉永元年(1848)、分家であった豊信が土佐藩主に就任することなりました。
吉田東洋と四賢候
藩主となった豊信は、これまで藩政を仕切ってきた門閥、旧臣を嫌い、革新派の「新おこぜ組」を組織する吉田東洋を起用します。
すると吉田東洋は、家老を押しのけ様々な藩政改革を断行。
この活躍に豊信の吉田東洋への信頼はさらに厚いものとなり、吉田東洋が山内家姻戚とイザコザを起こして謹慎処分にしても、3年後には再び起用しています。
この吉田東洋の活躍によって力をつけた土佐藩は、幕府にも積極的に意見して幕政改革を訴えていきました。
豊信も越前福井藩主・松平慶永(春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬と並び「四賢侯」と称され、高い評価を受けています。
その後、13代将軍・徳川家定のあと、次の将軍に一橋慶喜を推す前水戸藩主・徳川斉昭に豊信ら四賢候が賛同。
豊信らの「一橋派」は、次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼らの「南紀派」と激しく対立しました。
しかし、大老となった井伊直弼に強権を発動されて「一橋派」は完全敗北。
豊信はこれに憤慨して、幕府に願い出て隠居することになりました。
そして『安政の大獄』が始まると旧一橋派は弾圧され、隠居していた豊信も徳川斉昭、松平慶永らと同様に謹慎処分となってしまいました。
大河ドラマ「龍馬伝」での吉田東洋
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山内容堂
前藩主・豊惇の弟の豊範に藩主の座を譲った豊信は当初「忍堂」と号していました。
しかしある時、水戸派の学者・藤田東湖が「指導者は忍ぶだけではダメ。多くの者の意見を容れる(いれる)ことが大切です。それこそ人君の徳といえるでしょ」という言葉に感動し、号を「容堂」と改めました。
容堂の基本思想は「公武合体」でしたが、藩内の勤皇志士を弾圧したり、はたまた朝廷に奉仕したり、やっぱり幕府寄りになったりなど統一性のない行動を取っていました。
このため世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、西郷隆盛からは「単純な佐幕派のほうがまだマシ」とまで言われています。
容堂の謹慎中、土佐藩では尊王攘夷派が力をつけ、桜田門外の変以降は全国の主流が尊王攘夷に流れていきます。
土佐藩では、武市半平太を首領とする尊王攘夷志士グループ「土佐勤王党」が台頭し、吉田東洋を暗殺する事件も発生。
武市半平太は、容堂によって追いやられていた門閥、旧臣たちを操り、藩政を掌握していきました。
そんな折、文久3年(1863)に八月十八日の政変が起こり、京都から尊王攘夷派の中心である長州藩が追い出されると、公武合体派、佐幕派が力を取り戻します。
容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国するとすぐに藩政を掌握していきました。
容堂は、まず東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧を実行。
党員を片っ端から捕まえて牢にブチ込み、首領の武市半平太には切腹を命じて土佐勤王党を壊滅させました。
大河ドラマ「龍馬伝」での武市半平太
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倒幕か佐幕か
すっかり復活した容堂は、上京して朝廷から参預に任ぜられ、国政の主導しようとする参預会議に参加しますが、この会議は一橋慶喜によって短期間で崩壊させられます。
さらに慶応3年(1867)に、薩摩藩主導で設置された四侯会議にも容堂は参加しましたが、幕府の権力を削ろうとする薩摩藩のやり方を嫌って欠席を続け、結局この会議も短期間で崩壊していきました。
しかし、この年、土佐藩士・乾退助(のちの板垣退助)と谷干城が、薩摩藩の西郷隆盛らと武力倒幕を掲げ、薩土密約を締結しました。
徳川恩顧の立場から公武合体・佐幕路線を模索していた容堂でしたが、この密約の内容を知ると軍備を増強。
このまま土佐藩は倒幕路線へ突き進むと思われましたが、1カ月後に土佐脱藩藩士・坂本龍馬と土佐藩士・後藤象二郎らが武力倒幕ではなく、大政奉還による王政復古を目標に掲げます。
容堂はこれに賛同し、後藤象二郎たちは薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛と会談して、大政奉還を目指した「薩土盟約」を締結しました。
「薩土盟約」が結ばれたものの、薩摩藩の思惑は武力を用いた脅迫じみた大政奉還であり、これに容堂は真っ向から反対。
わずか2ケ月半でこの「薩土盟約」は瓦解し、次第に土佐藩の中には乾退助と西郷隆盛が結んだ「薩土密約」が重視され始め、徐々に倒幕路線に傾いていきました。
容堂は分家であった自分を藩主にしてくれた幕府を擁護し続けましたが、もはや倒幕へ流れる時代を止めることは出来ませんでした。
そんな中、平和的解決の道を探っていた坂本龍馬は「船中八策」を後藤象二郎を通じて容堂に進言。
容堂はこれを取り入れて将軍・徳川慶喜に建白し、ついに幕府は朝廷に政権を返還し、平和的解決を成し遂げました。
大河ドラマ「西郷どん」の坂本龍馬と西郷隆盛
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無視される酒乱
容堂らによって平和的政権返還が成し遂げられたものの、その後の主導権は完全に薩摩・長州に握られます。
徳川家の処遇を決めるため、各藩代表が集まった小御所会議に容堂も出席しますが、こともあろうか容堂は泥酔状態で現れました。
ここで容堂は「王政復古の大号令」を岩倉具視ら公卿による陰謀だとイチャモンをつけ、この場に徳川慶喜が呼ばれていないのはおかしいと主張します。
また、徳川宗家の官位、領地を取り上げようとする「辞官納地」に猛反対し、徳川氏を中心とする会議を開くべきだと要求しました。
これに松平春嶽が同調していましたが、酔っ払いの容堂は「公卿が幼沖(幼稚な)な天子様を擁し、権威を欲しいままにしている」と暴言を吐きます。
さすがに堪忍袋の緒が切れた岩倉具視は「天子様を幼沖とは何事か!」と叱りつけ、その後の会議は容堂を完全無視し、討幕路線に突き進んでいきました。
慶応4年(1868)、 鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と旧幕府軍は激突。
容堂は自分が土佐藩兵100名を上京させていたにもかかわらず、参戦するなと厳命します。
しかし、土佐藩兵らは容堂の制止を振り切って、薩土密約を守るべく新政府軍側で戦闘に参加しました。
明治維新後、内国事務総裁に就任した容堂はプライドを捨て去ることができず、かつて家臣や領民だった者達と馴染めずに辞職して隠居。
その後、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に溺れる隠居生活を送り、明治5年(1872)、暴飲による脳溢血で死去しました。享年46。
容堂は豪遊生活で家が傾きかけると「昔から大名が倒産した例はない。俺が一番にやってやろう」とバカなことを言っていたようです。
酒!女!最高!