大河ドラマ西郷どん(せごどん)
安政の大獄
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第16話で始まる歴史に名高い「安政の大獄」。
この「安政の大獄」のせいで、井伊直弼は悪役のレッテルを張られたと言っても過言ではありません。
大河ドラマでも、もれなく悪役として描かれていきますが、ホントの井伊直弼はとても大変だったんですよ。
今回は、井伊直弼がキレたくなる気も分かる気がする「安政の大獄」について簡単に紹介します。
激オコ!井伊直弼
出典:http://r-ijin.com/ii-naosuke/
安政の大獄
安政の大獄は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、幕府が行なった政治弾圧。
大老・井伊直弼が命令したものですが、形式上は第13代将軍・徳川家定が命令して処罰を行なったことになっています。
安政の大獄に至った背景としては「将軍継嗣」、「条約勅許」の二つの問題が絡み合っていました。
まず、黒船が来航した1853年、徳川家定が将軍に就任しましたが病弱であったために、すぐに次期将軍を決める「将軍継嗣問題」が起こります。
優れた人物であると評判だった徳川斉昭の七男・一橋慶喜を推した『一橋派』と、血統を重視した紀州藩主・徳川慶福を推す『南紀派』に分かれ、両者は激しく対立していきました。
またこの頃、米国総領事・ハリスは、幕府に対し日米通商航海条約への調印を迫ってきました。
そこで幕府は条約締結に対して諸藩に意見を求め、締結には朝廷の勅許をもらった上で調印することに決定。
勅許を得るために、すぐに老中首座・堀田正睦は京都に向かいましたが、尊王攘夷派の工作もあり、もともと攘夷論者であった孝明天皇に拒絶されてしまいます。
このために幕政は完全に行き詰まり、『南紀派』だった堀田正睦は、『一橋派』との融和を図って越前福井藩主・松平慶永の大老就任を計画し、状況を好転させようと考えます。
しかし『南紀派』の工作により、安政5年(1858年)大老には南紀派の彦根藩主・井伊直弼が就任しました。
大老となった井伊直弼が、まず取り組んだのが「将軍継嗣問題」。
井伊直弼は、大老就任とほぼ同時に将軍後継者を徳川慶福であると公表し、この問題を決着させます。
この時『一橋派』であった薩摩藩主・島津斉彬は井伊直弼に反発し、兵を率いて上洛することを計画していましたが急死して中止となっています。
残されたのは「条約勅許問題」ですが、意外にも井伊直弼は勅許なしでの調印には反対でした。
しかし、幕府内では勅許なしでの調印を進める老中たちが主流であり、井伊直弼は孤立。
老中たちは、井伊直弼の意見を無視して調印に踏み切りました。
責任を押し付けられた形になりましたが、外から見れば大老・井伊直弼は幕政の主導者。
批判の目は、「将軍継嗣問題」と「条約勅許問題」を強引に解決させた井伊直弼に集まりました。
ちなみに井伊直弼は調印から4日後に、『一橋派』だった松平慶永に相談して調印に関わった老中たちを罷免しています。
さて、この時に一番怒り狂っていたのは『一橋派』の首魁であった強固な尊王攘夷思想を持つ前水戸藩主・徳川斉昭。
徳川斉昭にとっては「将軍継嗣問題」と「条約勅許問題」でとった幕府、井伊直弼の行動はどうしても許せません。
一旦は謹慎していたものの復帰して水戸藩を動かし、尾張藩主・徳川慶勝や松平慶永らと協力して、幕政を正そうと不時登城(決められて日以外に江戸城に来ること)しました。
これに対し井伊直弼は完全に逆ギレ。
「勝手に江戸城にきて政治を乱した罪は重い」として彼らを隠居・謹慎など処分しました。
実は徳川慶勝や松平慶永などは、開国に対して前向きな考えを持っていましたが、徳川斉昭の勢いに押されて、とばっちりを受けたようなもんです。
その後、徳川斉昭の影響をモロに受け、幕府が許せない水戸藩は、朝廷工作を行って戊午の密勅をいただきます。
幕府を通さずに、朝廷から直接水戸藩に幕政改革を要求する指示があったことに井伊直弼は激怒。
手始めに老中・間部詮勝、京都所司代・酒井忠義らを上洛させ、京都で活動する反井伊派の志士・梅田雲浜、橋本左内らを逮捕し、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まります。
処分されたのは一橋派や、尊王攘夷派の大名・公家・志士たち100人以上。
次々に捕らえられた志士たちは死罪、遠島など厳しく処分されました。
安政の大獄と呼ばれたこの大弾圧は、桜田門外の変まで続きましたが井伊直弼の死後、幕府では『一橋派』が復活。
安政の大獄に関わった者たちを逆に処罰し、彦根藩も10万石を削減されました。
その後、彦根藩は井伊直弼の懐刀・長野主膳に責任を負わせて、大人しく時勢に沿った対応をしていきます。
強引なやり方で批判の的となった井伊直弼ですが、内にも外にも問題を抱えて周りに好き勝手やられたら、そりゃキレますよね。